現実
「ここは、どこだ」
いや……知っている。見覚えがありすぎるこの薄暗い室内。ここは、俺の部屋だ。オルデンの世界ではなく紛れもない、俺が住む現実世界だった。
「……俺は……長い夢でも見ていたのか……?」
そう思った瞬間、首元に焼きつくような激痛が走った。思わず手を伸ばし、喉仏のあたりに指先が触れる。ちくりと、皮膚が裂けるような鋭い痛みが奔った。俺は弾かれたように立ち上がり、鏡の前へ取り付いた。鏡に映っていたのは……首筋に黒ずんだ太い縄の痕をくっきりと残した、己の姿だった。
「っ……!? これは……どういうことだ……!?」
足りない頭で必死に思考を巡らせる。俺は……あのゲームの世界で死んだことで、現実世界へ引き戻されたのか? そうとしか考えられない。死ねば現実へ帰れると知っていたなら、最初から迷わず死んでいればよかったじゃないか。……いや、それは不可能だ。あの時の俺には、死んだら現実へ戻れる保証なんてどこにもなかったのだから。
鏡の中の自分を改めて凝視する。そこに映っているのは、変わらず醜いガマガエルのような肥満体の俺だった。あの地獄のような過酷な生活で手に入れたスリムな【中の下】の体型は、綺麗さっぱり消え去っていた。首に縄の痕だけを残しておいて、苦労して手に入れた体型が反映されないなんて、あまりにも納得がいかない理不尽だ。
……だが、それ以上に。俺の目から、ボロボロと大きな涙が溢れ出してきた。
(俺は……生きている……! 生きて……戻ってこられたんだ……ッ!!)
それは、現実世界へ戻れた安堵と、今こうして息をしている圧倒的な生の実感だった。これまでの人生、ろくなことがなかった。本気で死にたいと投げやりになったことだって何度もある。だが、実際に首を吊られ、死の絶望を身体で体感したからこそ、生きていることの尊さが痛いほど理解できたのだ。
今まで「自分はかわいそうだ」と思い込んでいた甘えが、ガラガラと崩れ落ちていく。幼い頃から欲望のままに暴飲暴食を重ねて太り、気が小さくて何事にも気おくれし、傷つくのを恐れて自分の殻に閉じこもり、一人ぼっちになった。……すべて、俺自身の弱さが生み出した自業自得の産物だったのだ。ほんの少しの努力で未来を変えられたはずなのに、俺はその事実からずっと目を背け、気づかないフリを決め込んでいただけだった。
ゲームの世界の過酷な生死の境目に放り込まれて初めて、俺は己の情けなさに気づかされたのだ。辛く惨めなことばかりだったが……あの体験は、俺の腐った人生にとって必要な経験だったのかもしれない。俺はふと、デスクの上に置かれたVR機器――フルダイブ型RPGの専用ヘッドセットに目をやった。バイクのフルフェイスヘルメットに似たそれを被れば、いつでもあの世界へ突入できる。
俺は生きている。次に気になるのは、あの世界のその後だった。あの出来事が夢でないなら、ゲームを再開すればまたあの世界へ戻れるかもしれない。あそこは現実以上に過酷で、いつ死ぬか分からない場所だ。次に死ねば、今度こそ本当に命を落とす可能性だってある。だが、俺の身体は震えていなかった。今までの臆病な俺なら、恐怖でガタガタと震え上がっていたはずだ。だが、今の俺は違った。俺は、あの修羅場をくぐり抜けてほんの少しだけ成長していたのだ。
俺は迷うことなく、ヘッドセットを起動し、ゲームの再開を望んだ。クロエに会いたかった。ルビーに会いたかった。そして……逃げ出した自分の醜さを、クロエにきちんと謝りたかったのだ。しかし……ディスプレイに表示されたのは、無情な文字列だった。
『――誠に勝手ながら、本サービスは終了いたしました』
「……サービス終了、だと……?」
画面に浮かぶサービス終了のお知らせを前に、俺の胸に去来したのは……巨大な安堵感だった。
(……ははっ、やっぱり俺は……どこまでも小心者で、臆病で、情けない男だな……)
さっきまで成長しただのなんだのと格好をつけていた矢先にこれだ。そう簡単に人間が変われるはずがない。あんな地獄へ戻らなくて済むと知ってホッとしている自分が、確かにここにいた。だが……絶対に変われないなんてことはないはずだ。一歩進んで二歩下がる……とまでは言わないが、一歩踏み出したうちの二割くらいは前進できたんじゃないだろうか。それでもいいじゃないか。今まで何一つ成長せず、後退し続けてきた俺だ。二割でも前進できたなら、大きな進歩じゃないか。
「クロエ……ルビー……プラタ……」
クロエに謝罪したかったのも、ルビーたちに会いたかったのも本当の気持ちだ。だが、あの地獄へ戻らずに済んだのも、一つの救いなのだと思う。俺の本当の気持ちはどちらなのか。……いや、どちらも偽りのない俺の本音なのだろう。あの世界での出来事は、俺にとって過酷で、現実以上の苦痛でしかなかった。だが……こんな醜く惨めな俺のために、クロエは奴隷になってまで俺を助けようとしてくれた。ルビーは「ガマブンと一緒にいたい」と必要としてくれた。現実世界では、誰も俺を必要としてくれなかった。……違うな。俺が世間を拒絶し、誰も入ってこられないように壁を作っていただけだったんだ。
あの世界で俺は、自分を守るためとはいえ、必死で自分から人と関わっていった。そうやって拒絶の壁を壊したからこそ、俺は世界の一部になれたのだ。そうだ。俺の方から世界へ手を伸ばせば、世界はちゃんと変わってくれる。俺はそのことを、身をもって学んだんだ。
俺は静かに部屋のドアを開け、廊下へ出た。階段を降りると、キッチンから朝食を作る香ばしい匂いが漂ってくる。いつもなら、無言で席につき、無言で飯を詰め込み、無言で仕事へ向かうだけの日常。親への挨拶をやめたのはいつからだったか。会話を拒絶するようになったのはいつからだったか……もう思い出せないほど昔のことだ。母さんはいつだって、俺に優しく挨拶をし、声をかけてくれていたのに、俺がそれを突っぱねて遮断していたのだ。
俺は変わらなければいけない。
そう気づかせてくれたのは、クロエ、ルビー、そしてプラタだ。彼女たちと過ごした過酷な日々が、俺に本当に大切なものを教えてくれた。俺は死を覚悟し、己の罪と向き合った。あの死刑台の上の恐ろさに比べれば、現実の恐怖なんて大したことはない。俺は相変わらず醜いガマガエルのままだ。今日明日で劇的に格好良くなれるわけじゃない。だけど……手始めに、きちんと言葉を交わそう。これが、俺がこれから始める自分改革の、輝かしい第一歩だ。
「……おはよう、お母さん」
何年ぶりか分からない俺の声に、キッチンに立つ母親が驚いたように振り返った。




