明日への扉
「……おはよう、秋」
母親は、溢れ出そうになる涙をうっすらと浮かべながら、笑顔で俺に挨拶を返してくれた。その表情には、隠しきれない驚きと込み上げる嬉しさが溢れ出ていた。いつもの俺なら、そんな母親の涙すら見て見ぬ振りをして通り過ぎていただろう。……だが、今日だけはスルーしてはいけない。ここで俺が黙り込み、いつも通りの殻に閉じこもれば、母親の戸惑いに拍車をかけるだけだ。
俺は胸の奥で小さな勇気を振り絞った。
「……お母さん。いままでごめん。俺……変わるから」
自分でも驚くほど、自然な笑顔が口元に浮かんでいた。
「……っ」
母親はあまりの衝撃に、言葉を失って立ち尽くしている。
「……ちょっとね、いろいろ考えることがあったんだ。お母さん、俺……がんばるよ」
ゲームの世界へ行っていたなんて話すつもりはない。そんな夢物語を語ったところで誰も信じないだろうし、それでいいのだ。あれは俺だけの、胸の奥に秘めておくべき過酷で大切な物語なのだから。
「……秋。うん、がんばってね」
母親はそれ以上、何も深く追求してはこなかった。急に変わり始めた俺を問い詰めることが、かえって悪手になると分かっているのだ。俺のやりたいようにやらせてあげることこそが、今の俺のためになると理解してくれたのだろう。親として聞きたいこと、不安なことは山ほどあるはずだ。どうして急に変わろうと思ったのか、その理由を知りたくてたまらないはずなのに母親は何も言わず、ただ温かく俺を信じることを選んでくれたのだ。
俺は温かい朝食を胃に納め、仕事へ向かう準備を整えた。
職場は原付で20分ほどの場所にある物流倉庫で、商品の仕分け作業が俺の日常だった。すれ違うスタッフたちは誰一人として挨拶を交わすこともなく、黙々と更衣室へ向かって作業着に着替える。そして現場へ赴き、機械のように淡々と商品を仕分けていく。昼休憩に入ると、俺はスマホを手に取り、一本の電話をかけた。派遣会社へ、退職の意思を伝えるためだ。
俺は30歳になってもアルバイトのままだった。面接という場が極度に苦手で、傷つくのを恐れていた俺は、面接がほぼ皆無で簡単に採用される派遣のアルバイトにずっと甘んじていたのだ。こんな環境で満足していた自分がいた。だが……俺はアルバイトを辞め、ちゃんと正社員を目指して働くことを決めた。現実世界に戻ってきた俺が、まず最初に成し遂げるべき責任がこれだと思ったのだ。
電話口で一ヶ月後に辞める旨を伝えると、派遣会社は特に引き止めることもなくあっさりと了承してくれた。辞めること自体は簡単だ。これで本当の第一歩を踏み出したわけではない。俺はそのまま昼休憩の時間を使って、スマホで新たな求人情報を探し始めた。
(……すぐに見つかるわけないよな)
そう思いながら画面をスクロールしていたが、ふと、気になる求人に目が留まった。
雇用形態は契約社員。世間一般のイメージからすれば、契約社員なんてアルバイトと大差ないのかもしれない。だが、備考欄には正社員登用制度ありとくっきりと書かれていた。大学を卒業してから一度も正社員として働いたことがない俺だ。気合を入れて最初から正社員を目指そうとも考えたが、いきなり劇的に変われるわけがないことは俺自身が一番よく知っている。今の俺にとっては、まず契約社員として飛び込むのが妥当な選択だろう。……甘えかもしれない。だが、最初の一歩のハードルは低めでいいのだ。それでも俺にとっては間違いなく、大きな前進と言えるのだから。俺はすぐに応募フォームを送信し、午後の仕分け作業へと戻った。
仕事を終えて家に帰る。いつもなら速攻で部屋に閉じこもり、ゲームにしがみつく時間だ。だが、俺はすぐにスポーツウェアに着替え、玄関へと向かった。
「……お母さん、ちょっとジョギングに行ってくるよ」
「えっ……? うん、いってらっしゃい!」
俺はダイエットを始めることにした。自分でもこのガマガエルのような肥満体の容姿は嫌いだ。だからこそ、まずは身体を絞り、健康的な体型を手に入れることから始めていく。
それから、2週間の月日が経過した。
人間なんて、そう簡単に劇的な変化を遂げられるものではない。そんなに簡単に変われるなら、誰も苦労なんてしないのだ。だから俺は無茶な目標は立てない。継続は力なり。少しずつ、一歩ずつでいい。
俺は親と毎朝挨拶を交わし、たわいのない会話をするようになった。「今日は天気が良いね」とか「最近少し寒くなってきたね」とか、本当にありふれた日常の会話だ。会社へ向かえば、いつものように黙々と仕分け作業をこなす。あと2週間で辞める職場だ。今更無理をして社交的になる必要もない。次の職場へ移ったら、そこから少しずつ明るく振る舞っていけばいいのだ。焦る必要なんてどこにもない。
そして今日、ついに面接の日がやってきた。2週間前に応募した、あの契約社員の面接だ。求人票の案内には服装自由と書かれていた。今までアルバイトの面接でスーツなんて着たことはなかったし、普通なら私服で向かっても構わないのだろう。だが、俺はクローゼットの奥から一着のスーツを取り出した。このスーツは、俺が大学を卒業する際、就職活動のために両親が買ってくれたものだった。結局、当時の俺は試寝で袖を通しただけで一度も着ることなく、ずっと暗闇に眠らせていたのだ。
親が買ってくれたスーツ。
数年越しに初めてしっかりと袖を通すと、ほんの少しだけ親孝行ができたような、晴れやかな気分になった。鏡に映るスーツ姿の自分を見る。バクバクと心臓が激しく鳴り響き、緊張が全身を駆け巡る。久しく味わっていなかった感覚だ。だが……この緊張感は、決して嫌なものではなかった。むしろ、心地よいとすら思えた。普通の人にとってみれば、何でもない当たり前の出来事かもしれない。けれど、俺にとっては人生を賭けた巨大な一歩なのだ。この緊張は、過去へ逃げ出す恐怖の緊張じゃない。……新しい自分の人生に向けた、希望と期待の緊張なのだから。
俺は鏡の中に映る自分の不格好な顔に向かって、両手でパンッと平手打ちを食らわせた。
「……よしっ!!」
気合を入れ、俺は新しい未来へと一歩を踏み出すために、ドアを開けて外へと飛び出した。




