覚悟の時間
体が震えて、声が出ない。そうだ、ここはゲームの世界だが……もう、取り返しのつかないリアルな現実になってしまっているのだ。ゲームだからこそ、相手を感情のないNPCだと割り切れたからこそ、俺は緊張せずに声をかけられる無敵のナンパ師になれた。だが、いま目の前にあるのは生身の人間たちの営みだ。そう自覚した瞬間、激しい対人恐怖が俺を襲う。
ガクガクと震える俺の身体。顔面は蒼白となり、元からブサイクだったガマガエルのような顔は、さらに醜く歪んでいく。すれ違う人々は、俺を見て露骨に嫌悪の表情を浮かべた。
「まだだ……まだ終わってない……!」
精神が崩壊しかける中、俺は必死に希望の光へすがりついた。意識を集中させる。50万円を課金して得たレアスキル【万象の心音】。これなら、話さずとも相手のシステムの裏側にある本音が聞こえるはずだ。俺は震えながら、すれ違う人々の心へと意識を向けた。
(…………)
何も、聞こえない。脳裏に響くのは静寂だけで、感じるのは俺を見下す怪訝な視線だけだった。当然だ。高身長細マッチョのイケメンアバターだった俺の姿は、リアルなガマガエルに戻っている。ステータス画面すら開かないのだ。ゲームで得た特権を、すべて失ったと判断するのが妥当だった。
「嘘だろ……総額350万円も課金したんだぞ……!」
俺は絶望した。1000人を超えるNPCと恋人になり、ハーレムを築いた。オルデンだけが、俺の醜い願望を実現できる唯一の楽園だったのに。もし、課金した全てが残った状態でこの世界に転移したのなら、俺は歓喜しただろう。ゲーム仕様の規制で不可能だった、手つなぎやキスのその先……本物の肉体関係を結ぶことだってできたはずだ。生身の人間として閉じ込められたということは、NPCたちもまた本物の人間になったことを意味するのだから。なのに、俺は彼女たちをパートナーにする術を、全て失ってしまった。
「あああああッ……!!」
俺は地面に膝をつき、天を仰いで号泣した。子供のように泣きじゃくるガマガエル。だが、そんな俺を憐れむ者など誰もいない。それどころか、ただの不審者として通報された。俺は警備隊の手によって南区警備署へと容赦なく連行された。丸一日拘束され、陰湿で入念な取り調べを受けてから、ようやく路頭に放り出された。
「おい、無職の底辺が! 二度と街中で迷惑をかけるなよ。それと、拘留費用の実費1万円だ。1ヶ月以内に支払いがなければ、強制労働施設に行ってもらうからな」
「……」
衛兵が吐き捨てる。拘留中、俺はこの世界の残酷なシステムを知った。この世界にはステータス画面がない代わりに、魔導具である『身分記録機』に手を当てることで、個人情報が白日の下に晒されるのだ。
【種族:人間、年齢:三十歳、犯罪歴:無し、職歴:無し、住所:なし】
ゲーム内で課金して購入したはずの豪華な邸宅も失っていた。俺はただの家なし無職、正真正銘のド底辺だった。俺に残された選択肢は2つ。デッド・オア・アライブ……生きるか、死ぬか。このまま絶望して野垂れ死ぬか、それとも泥をすすってでも生き抜くか。俺は留置場の冷たい床の上で、一睡もせずに考え続け……1つの答えを見出した。
背後から罵倒してくる警備隊に、無言のまま背を向ける。それが、無力な俺にできる唯一の抵抗だった。
(いまに見とけ……! 俺はこの世界で這い上がって、俺を化け物みたいに蔑んだ住人どもを、絶対に全員見返してやる……!)
俺が今向かうべき場所は1つ。冒険者ギルドだ。俺は足早にギルドへと向かった。ギルドの門の前にたどり着いた瞬間、耳を塞ぎたくなるような怒号が飛び込んできた。
「この役立たずの木偶の棒が! お前みたいな地雷とはパーティー解消だ!」
怒声を張り上げているのは、パーティーのリーダーらしき大男の剣士だ。熊のように筋骨逞しい体躯に、生傷の絶えない不遜な面構え。自慢のグレートソードをこれ見よがしに背負い、怯えている相手を見下して唾を吐き捨てている。
「噂通りの給料泥棒だな。漆黒の重鎧に、身の丈を超える大剣……少しは期待した俺たちがバカだったぜ!」
大男の傍らで冷笑を浮かべるのは、いかにも神経質そうな魔法使いの男だ。豪奢な刺繍が施された魔導ローブをまとい、手にした豪奢な杖で地面を小突きながら、心底見下したような目を向けている。
「お前のせいで全滅しかけたんだぞ! 損害賠償として50万円請求するから覚悟しておけ!」
さらに追い打ちをかけるように甲高い声をあげたのは、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべる小柄な弓使いの男だった。身軽なレザーアーマーに緑のフードを被り、肩に掛けた短弓を弄びながら、弱者をいたぶる娯楽を心から楽しんでいる。
この3人の冒険者たちが怒鳴り散らす先で、1人の小柄な女性の獣人戦士が、地面に額を擦り付けていた。身の丈に合わない重厚な黒鉄の鎧をまとい、大剣を泥にまみれさせながら、彼女は必死に声を震わせている。
「ぼ、僕を見捨てないでほしいっす! もう一度、もう一度だけチャンスをくださいっす!」
俺がギルドへ来た目的は、ただ一つ。今、目の前でみじめに土下座をしている猫の獣人……クロエを、俺の最初のパートナーにするためだ!




