第9話「初めて響く声」
魔法の薬を飲み干した直後、胸の奥から湧き上がった熱は、波紋のように広がってエリアルの耳の奥へとかすかな刺激を伝えていく。
頭の中で、これまで意味を持たない雑音として処理されていた洞窟内の環境音が、急に輪郭を持ち始める。
薪が燃え尽きて崩れる音、水滴が岩肌を伝い落ちる音、そして目の前にいる大きな男の深い呼吸音。
それらがすべて、一つひとつ独立した意味を持つ情報として脳内に流れ込んでくるような、奇妙でくすぐったい感覚に囚われていた。
目の前にひざまずくドラグレスは、空になった素焼きの杯を床の毛皮の上に置くと、大きな手のひらを伸ばし、エリアルの細い肩をそっと包み込む。
男の放つ体温はいつも通り熱いが、今のエリアルにはその熱の奥にある感情の揺らぎまでが肌越しに伝わってくる気がした。
黄金の瞳は期待と、ほんの少しの不安で細められており、瞬きすら惜しむようにエリアルを見つめている。
男がゆっくりと口を開き、その唇から低く、地響きのような音が漏れ出した。
それは今まで何度も聞いていた、獣の唸り声ではない。
「……聞こえるか。愛しい、俺の番よ」
その瞬間、エリアルの脳裏に、男の言葉が明確な意味を持った人間の言語として染み込んできた。
低く、けれど驚くほどに深く、耳の奥を甘く痺れさせるような響きを持った声。
エリアルは全身を雷に打たれたように硬直させ、目を見開いて男の顔を凝視した。
言葉が通じたという衝撃よりも先に、男の口から発せられた『愛しい』と『番』という単語の重みが、エリアルの心臓をわしづかみにする。
オメガバースの世界において、魂の番と呼ばれる存在がどれほど特別で、どれほど絶対的な絆であるかは、村の片隅で生きていたエリアルでも知っている。
一生に一度出会えるかどうかもわからない、運命によって結ばれた唯一無二の伴侶。
この恐ろしい竜王が、生贄として捨てられた自分をそんな特別な存在として呼んだという事実が、どうしても現実のものとして受け入れられなかった。
「あ……あの、あなたは……」
エリアルがかすれた声を絞り出すと、今度はドラグレスの側が大きく目を見開いた。
初めて明確な意味を持って響いたエリアルの声を、一言も聞き漏らすまいとするように、彼は身を乗り出してさらに顔を近づけてくる。
漆黒の髪の間から覗く角が、エリアルの頬をかすめそうなほどに近い。
ドラグレスの背後では、太い竜の尾が激しく、床の毛皮を何度も叩きつけるようにして揺れ動いていた。
そのあまりの喜びの大きさと、彼から溢れ出す甘く濃密なαのフェロモンに当てられ、エリアルは頬が急激に熱くなっていくのを抑えきれない。
「俺はドラグレス。この竜の峰を統べる者だ。お前が猛吹雪の中で倒れていたあの夜、その匂いを嗅いだ瞬間から、俺の魂はお前だけを求めていた」
ドラグレスは不器用なほど真っ直ぐな言葉で、その胸の内に秘めていた感情を語り始めた。
彼の大きな手がエリアルの肩から頬へと移動し、溢れんばかりの愛おしさを込めて、親指の腹でその柔らかな肌を撫でる。
言葉が通じなかったこれまでの数日間、彼がなぜあれほど過保護に温かい食事を与え、寝床を美しい宝石や花で満たしていたのか。
そのすべての行動の理由が、今、一つの確かな線となってエリアルの頭の中で繋がっていった。
彼はエリアルを太らせて食べるために餌付けしていたのではない。
αとしての本能の赴くままに、大切な番を喜ばせ、守り、自分の巣に迎え入れるために、己の持てるすべての最上のものを貢いで求愛していたのだ。
そのあまりにも巨大な勘違いの事実に、エリアルは羞恥のあまり両手で顔を覆い隠したくなった。
自分はなんて愚かで、滑稽なことを考えて怯えていたのだろう。
この不器用で優しい竜は、最初からエリアルを傷つけるつもりなど毛頭なく、ただ純粋な愛情だけでこの小さな命を包み込んでくれていたのだ。
「お前は、村の者たちにひどく傷つけられていたのだろう。その痩せた身体も、常に何かに怯える瞳も、俺がすべて癒してやる。俺の命に代えても、二度とお前を泣かせはしない。だから、もう何も恐れる必要はない」
ドラグレスの声は、エリアルの過去の傷を覆い隠すように優しく、そして決して揺らぐことのない力強さに満ちていた。
その言葉の端々ににじむ痛切なまでの愛情に触れ、エリアルは顔を覆おうとした手を止め、ゆっくりと男の真摯な眼差しを見つめ返す。
村で虐げられ、価値のない生贄として雪山に捨てられた自分を、この竜王は世界で最も尊い宝物であるかのように扱ってくれている。
言葉の壁が取り払われた今、ドラグレスの放つαのフェロモンは、エリアルのΩとしての本能を甘く激しく揺さぶり、揺るぎない安心感で全身を満たしていった。
エリアルは少しずつ早鐘を打つ心臓の音を聞きながら、まだ赤みの引かない顔を少しだけ伏せ、震える声で答えた。
「私は、エリアルです……ドラグレス、私を……見つけてくれて、本当に、ありがとう」
その名前を呼んだ瞬間、ドラグレスの黄金の瞳に、言葉にできないほどの深い感情があふれ出した。
彼は愛おしさに耐えかねたように、エリアルの小さな身体を両腕でしっかりと抱きすくめる。
分厚い胸板から伝わる熱と、耳元で聞こえる力強い心音が、エリアルに本当の居場所を見つけたのだという確信を与えてくれた。
エリアルはもう逃げることも怯えることもなく、ドラグレスの広い背中にそっと自身の両腕を回し、その確かな温もりを全身で受け止めていた。




