第5話「伝わらない言葉と魔法の図鑑」
エリアルが花を受け入れたことに満足したのか、男はしばらくの間、寝床の傍らに座り込んで静かにエリアルを見守っていた。
しかし、次第に男の眉間に深々としたしわが寄り始め、何かを思案するように太い腕を組む。
黄金の瞳がエリアルの顔と己の手のひらを交互に往復し、とき折もどかしそうに低い唸り声を上げた。
エリアルはその様子を毛皮の隙間からうかがいながら、男が意思疎通の手段を探しているのだと直感する。
どれだけ優しくされても、お互いの言葉が単なる音の羅列にしか聞こえない現状では、真意を確かめ合うことはできない。
男は突然立ち上がると、洞窟の壁面に彫り込まれた巨大な木の櫃へと歩いていった。
重厚な蓋を片手で持ち上げ、中から抱えきれないほど大きな一冊の書物を取り出す。
革で装丁された表紙には細かい傷が無数に刻まれ、長い年月を経て黒ずんだ銀の留め具が鈍い光を放っていた。
男は再びエリアルの傍らへ戻り、あぐらをかいて座ると、太ももの上にその巨大な書物を広げる。
分厚い羊皮紙がめくられるたびに、乾燥した古い紙の匂いと、かすかな薬草の香りが空気に混ざった。
男の大きな指先が、ある一組の挿絵の描かれたページでピタリと止まる。
エリアルが身を乗り出して覗き込むと、そこには人間と獣の特徴を持つ二つの人影が、小さなガラスの小瓶を分け合って飲む姿が描かれていた。
二人の人物の口元からは淡い光の線が伸び、互いの耳へと繋がっている。
その下には、深い青色の葉を持つ奇妙な植物と、銀色の斑点があるキノコの細密画が添えられていた。
『これは、言葉を通じさせる魔法の薬……?』
エリアルが挿絵を指差して顔を上げると、男は深く頷き、己の胸とエリアルを交互に指差した。
そして、太い指でページの下部に描かれた青い植物をトントンと叩き、洞窟の入り口の方向へと視線を向ける。
その動作が示す意味は明確だった。
この薬を作るために、外の世界へ素材を探しに行こうという提案だ。
しかし、外へ出なければならないと理解した瞬間、エリアルの胸の奥底に冷たい恐怖がよみがえった。
洞窟に連れてこられる前の、あの皮膚を削ぎ落とすような猛吹雪。
指先の感覚が失われ、ただ死を待つしかなかった孤独で暗い雪山の記憶が、背筋を凍らせる。
エリアルの呼吸が浅く早くなり、毛皮の布団を握りしめる両手が小刻みに震え始めた。
瞳孔が開き、怯えた目で洞窟の入り口を見つめるエリアルに気づき、男の背後で揺れていた尾の動きがぴたりと止まる。
男は険しい顔つきで書物を横へ放り出すと、身を乗り出してエリアルの震える両手を己の大きな手のひらで包み込んだ。
ごつごつとした指先から、燃えるような高い体温が直接流れ込んでくる。
男はエリアルの視線を無理やり引き寄せるように黄金の瞳を近づけ、深く、静かな呼吸を繰り返して見せた。
大丈夫だ、俺がいると告げるような揺るぎない眼差しに射抜かれ、エリアルは少しずつ己の呼吸の乱れを落ち着かせていく。
エリアルが小さく息を吐き出すのを確認すると、男は立ち上がり、今度は部屋の隅にある別の木箱から厚手の衣服を取り出してきた。
上質な獣の毛皮が何重にも縫い合わされた外套に、分厚い革の長靴、そして顔の半分を覆い隠せるほどの長い布。
男はエリアルを立ち上がらせると、まるで壊れやすいガラス細工を扱うように、一つひとつの防寒具を丁寧に身につけさせていく。
足に長靴を履かせ、靴紐をしっかりと結び、首元に布を何重にも巻きつけて外気が入らないように整える。
最後に、自分の体格よりも二回りほど大きな外套をすっぽりと被せられたエリアルは、歩くのも困難なほどに着膨れてしまった。
男はそんなエリアルの姿を見て満足そうに鼻を鳴らすと、自身の太い腕を差し出す。
その力強く太い腕にそっと両手を添えると、男はエリアルを軽々と抱え上げ、己の胸の中にすっぽりと収めた。
極上の防寒具と、男の身体から放たれる途方もない熱量に包まれ、寒さへの恐怖は徐々に薄れていく。
男はしっかりとエリアルを抱きかかえたまま、青い植物の絵が描かれた書物を片手に持ち、迷いのない足取りで洞窟の入り口へと向かって歩き始めた。




