第2話「捕食のための寝床」
岩肌を削って作られた巨大な洞窟の奥深くは、外の猛吹雪が嘘のように穏やかな空気に満ちていた。
通路の壁面には淡く発光する苔が群生し、足元を柔らかな緑色の光で照らし出している。
空気はほんのりと暖かく、どこからかかすかな硫黄の匂いと乾いた土の香りが漂ってくる。
男の腕の中に抱かれたまま、エリアルは恐る恐る周囲の景色を観察していた。
生贄として連れてこられたのだから、血の匂いが充満する恐ろしい場所へ放り込まれるに違いない。
そう覚悟していたエリアルの予想は、洞窟の最奥にある広大な空間にたどり着いた瞬間、見事に裏切られることになる。
そこは、丁寧に平らに均された石の床の上に、数え切れないほどの獣の毛皮や色鮮やかな織物が敷き詰められた、異様に豪華な部屋だった。
部屋の中央には、ひときわ大きく柔らかな毛皮が何層にも重ねられ、ふかふかとした円形の寝床が作られている。
男は寝床のそばまで歩み寄ると、腕に抱えていたエリアルを、壊れ物を扱うかのような手つきでゆっくりと毛皮の上に下ろした。
背中を包み込むのは、雲のように柔らかく、驚くほど暖かい感触である。
『ここが、この竜の食料庫……?』
エリアルは外套の襟元をきつく握りしめながら、混乱する頭で必死に状況を整理しようと試みた。
食料として保管するにしては、あまりにも扱いが丁寧すぎる。
男は膝をついてエリアルの目線に合わせると、黄金の瞳でじっとこちらの様子をうかがっている。
漆黒の髪の間から突き出た角が、発光する苔の光を受けて鈍く光った。
男は何かを確かめるように太い指先を伸ばし、エリアルの乱れた前髪をそっと払いのける。
その動作があまりにも静かだったため、エリアルは逃げ出すこともできず、ただ息を潜めて見つめ返すことしかできなかった。
男はエリアルの怯えた表情を見ると、眉間にしわを寄せて短く鼻を鳴らす。
そして、ゆっくりと立ち上がると、部屋の奥にある窪みへと歩いていった。
残されたエリアルは、すかさず周囲を見渡し、逃げ道がないかを探る。
しかし、入り口は男の巨大な背中で塞がれており、外は一歩踏み出せば凍死する猛吹雪だ。
逃げ場など最初から存在しないのだという現実に、エリアルは深くため息をついた。
しばらくして、男が木をくり抜いて作った大きな器を両手で包み込むようにして戻ってくる。
器からは白い湯気が立ち上り、濃厚な肉と香草の香りが鼻腔をくすぐった。
男は再びエリアルの前にひざまずき、器の中身を少し冷ますようにふうふうと息を吹きかける。
そして、器をエリアルの口元へとゆっくりと差し出した。
琥珀色に透き通った熱いスープである。
『太らせてから、食べるつもりなんだ』
エリアルは器と男の顔を交互に見比べながら、そう結論付けた。
痩せこけた小さな人間など、竜から見れば骨ばかりで美味しくないに決まっている。
だからこうして暖かい寝床を与え、食事を摂らせて、肉付きが良くなるのを待つ算段なのだ。
そう考えると合点がいき、エリアルは己の不運を呪いながらも、空腹を訴えて鳴り続ける腹の音には抗えなかった。
震える両手を伸ばし、男が支える器の端にそっと触れる。
木の器は心地よい熱を帯びており、かじかんだ指先がじんじんと痛むほどに温かかった。
エリアルが器に口をつけ、恐る恐る一口だけスープを飲み込む。
煮込まれた獣肉の深い旨味と、香草の爽やかな風味が舌の上で弾け、熱い液体が喉を通って冷え切った胃の腑へと落ちていく。
何日もまともな食事を与えられていなかった身体が、歓喜の声を上げるように熱を吸収していった。
気がつけば、エリアルは男が器を持っていることも忘れ、両手でしっかりと器を抱え込んで夢中でスープを飲み干していた。
熱い液体が身体の隅々にまで行き渡り、強張っていた筋肉が少しずつ緩んでいく。
最後の一滴まで飲み干して息をつくと、男が満足げな表情で器を受け取った。
男の背後を見ると、先ほどまで静かに垂れ下がっていた太い尾が、床の毛皮を擦るようにぱたぱたと左右に揺れている。
その機嫌の良さそうな動きに、エリアルは呆然と目を瞬かせた。
言葉は全く交わしていないのに、餌付けが成功して喜んでいる男の感情が、尾の動きから痛いほどに伝わってくる。
男は空になった器を横に置くと、再び毛皮の外套を引き寄せ、エリアルを包み込むようにして背中の後ろに回した。
食料として扱われているはずなのに、与えられる温もりがあまりにも心地よくて、エリアルは複雑な感情を持て余すしかなかった。




