第1話「雪深き峰の生贄」
登場人物紹介
◇エリアル
村から生贄として竜の峰に捧げられたΩの青年。村では虐げられていたため自己肯定感が低く、最初は怯えてばかりだった。ドラグレスの行動を捕食のための準備だと勘違いしているが、彼の不器用な優しさに次第に惹かれていく。
◇ドラグレス
竜の峰を治める竜王のα。普段は人の姿をしているが、感情が高ぶると竜の角や尻尾が現れる。言葉が通じないエリアルに対して、不器用ながらも全力で貢ぎ物をして求愛する、無口で一途な性格。
刃のように冷たい風が、薄い麻の衣服をたやすく通り抜けて肌を切り裂く。
エリアルは両膝を抱え込み、ただじっと凍える夜空を見上げていた。
雲の隙間から覗く月は恐ろしいほどに白く、足元に広がる雪原を青白く照らし出している。
吐き出す息は白く濁る間もなく強風に散らされ、手足の先はとうに感覚を失っていた。
指先は紫色に変色し、かじかんだ手で己の腕をさすることすら今はもう叶わない。
ここは生きて帰る者のいない、竜が棲まうとされる絶望の峰である。
村で最も価値のない存在として扱われてきたΩの青年は、古くから伝わる厄除けの儀式のため、冷たい雪山の山頂にただ一人置き去りにされた。
まぶたの裏には、自分を雪山へと追いやった村人たちの冷ややかな視線が焼き付いている。
役立たずのΩがようやく村の役に立つ日が来たのだと、長老は歪んだ笑みを浮かべていた。
誰一人として、エリアルの死を悼む者などいない。
『これで、つらい日々も終わるんだ』
凍てつく空気の中で、エリアルは静かに死を受け入れようとしていた。
かすかな諦めの念が氷のように冷たく固まっていく。
どうせ生き延びたところで、自分には帰る場所などどこにもない。
このまま雪に埋もれて凍え死ぬか、噂に聞く恐ろしい竜の牙にかかって肉塊となるか。
どちらにせよ、惨めで孤独な最期であることに変わりはなかった。
ふいに、風の音が途切れたような錯覚を覚える。
いや、風が止んだのではない。
背後の闇の奥から、雪を深く押し潰すような重々しい足音が、規則正しい間隔で近づいてきているのだ。
その歩みは静かでありながら、大気を震わせるほどの重厚な圧力を伴っていた。
エリアルは呼吸を止め、強張る首をゆっくりと後ろへ向ける。
月明かりを遮るようにして、雪原に巨大な影が落ちていた。
そこに立っていたのは、噂に聞く巨大な爬虫類の怪物ではない。
人間の男性の姿に近いが、その体躯は常人よりも遥かに大きく、分厚い筋肉に覆われている。
漆黒の髪の間からは天を突くような鋭い二本の角が伸び、背後の雪面を撫でるように、太く逞しい竜の尾がゆったりと左右に揺れていた。
闇夜に溶け込むような黒衣をまとったその男は、黄金の瞳でエリアルを真っ直ぐに見下ろしている。
男の身体から放たれるのは、本能を直接握り潰されるような、濃密で重いαの気配だった。
空気が急激に密度を増したように感じられ、エリアルの喉から小さな引きつった音が漏れる。
逃げなければという思考が頭をよぎるが、凍りついた四肢はわずかに痙攣するだけで、雪から立ち上がることすらできない。
『食べられる』
エリアルは強くまぶたを閉じ、これから首筋に突き立てられるであろう鋭い牙の痛みを待った。
全身の筋肉を硬直させ、最期の瞬間に備えて小さく丸まる。
しかし、予想していた引き裂かれるような痛みは、いつまで経っても訪れることはなかった。
代わりに、不器用でたどたどしい動きがエリアルの肩口に触れる。
分厚く、それでいて驚くほど柔らかな毛皮の外套が、凍える小さな身体をすっぽりと包み込んだのだ。
外套からは、焚き火のような暖かな匂いと、男が発するかすかな甘い香りが漂ってくる。
驚きのあまりエリアルが目を開けると、黄金の瞳が至近距離からこちらを覗き込んでいた。
男は何も言わず、ただ無骨な大きな手で毛皮の襟元をしっかりと合わせ、外気が入り込まないように丁寧に整えている。
その指先がエリアルの冷たい頬に触れ、あまりの熱さにエリアルは小さく肩を跳ねさせた。
男の眉間にかすかなしわが寄り、喉の奥から低い唸りのような音が漏れる。
怒っているのだろうかとエリアルが身を縮めた次の瞬間、視界が大きく反転した。
男は毛皮ごとエリアルを軽々と抱え上げ、己の広い胸にしっかりと抱え込んだのだ。
分厚い胸板からは、燃えるような高い体温が直接伝わってくる。
それは、長年冷たい納屋で寝起きしていたエリアルが知るどの熱よりも、力強く確かな温もりだった。
「あ……」
何かを言おうとして開いた唇からは、かすれた吐息しか出てこない。
男はエリアルの細い身体を落とさないように太い腕でしっかりと抱え直すと、再び雪を踏みしめて歩き始めた。
風を遮るように男が体を傾けてくれているため、エリアルの顔にはもはや冷たい雪は当たらない。
男の背後では、太い竜の尾が雪を払うように力強く左右に揺れ続けている。
言葉は通じない。
どこへ連れて行かれるのかもわからない。
きっと、自分の巣に持ち帰ってからゆっくりと味わうつもりなのだと、エリアルは己の運命を悲観した。
それでも、男の腕の中は抗いがたいほどに暖かく、凍死寸前だった身体が徐々に熱を取り戻していくのを止めることはできなかった。
男の規則正しい心音を聞きながら、エリアルは毛皮の中に顔を埋め、ただじっと恐怖と寒さが過ぎ去るのを待つしかなかった。
雪山の静寂の中を、二人の影がゆっくりと巨大な洞窟の入り口へと吸い込まれていく。
男の力強い歩みは一度も止まることなく、深く暗い地の底へと続く道を進んでいった。




