第95話 戻る理由
豊かさは、静かに広がる。祝福のようでいて、その静けさは議論を少しずつ減らしていった。
広場では今日も取引が続いていた。連合経由の商人は増え、荷車から下ろされる品物も増えている。布、工具、保存食。積み上げられた木箱の間を、人が絶え間なく行き交っていた。
「この町は運がいい」
布地を検分していた商人が、顔も上げずに言う。
「連合の模範都市だからな」
その言葉は、もう珍しくもなんともなかった。誰の口からも自然に出てくる。
倉庫の前で、マルタが腕を組んでいた。しばらく荷の流れを眺めてから、彼女は口を開く。
「正直に言う」
一度言葉を切って、それから続けた。
「今、戻す意味あるのか」
近くにいた者たちの手が、わずかに止まる。
「戻す?」
荷を運んでいた誰かが聞き返した。
「三か月の集中。終わったら元に戻すって話だっただろう」
マルタの声は淡々としている。それは確かに、最初に交わした約束だった。
だが今は。
「困ってない」
倉庫番が肩をすくめる。
「むしろ前より楽だ」
畑仕事帰りの男も頷いた。
「防衛も安心できる」
沈黙が落ちた。私は返す言葉を探して、うまく見つけられずにいた。
確かに、町は困っていない。守られ、豊かになり、以前より速く動けている。目に見える不満は、どこにもない。
それでいて、分散は今も残っている。壊れてはいないのだ。
マルタが私に視線を向けた。
「何が問題なんだ」
その問いは、ひどく単純だった。
「構造だ」
答えたのはレオンだった。
「構造?」
マルタが眉を寄せる。
「今は三か月と決めてあるから、集中は借り物で済んでる」
レオンは一拍おいて、静かに続けた。
「これが恒常化したら?」
空気が少し冷えた。答えを、誰も口にしようとしない。
マルタがゆっくりと言う。
「それでも守れるなら、いいじゃないか」
私は彼女を見た。
「守れる」
マルタは繰り返す。
「今は、ちゃんと守れてる」
それは反論しようのない事実だった。私は焚き火に目を落とす。爆ぜる火の粉を追いながら、頭の隅で同じことを考えていた。
分散は壊れていない。だが、集中があまりに便利だ。便利な構造は、便利なままそこに残り続ける。
「戻る理由が、弱くなってる」
レオンが言った。今度は、誰もそれを否定しなかった。
町は壊れていない。それどころか、以前より強くなった。ただ、最初に立てた問いのかたちが、少しずつ変わってきている。
集中は危険か――ではなく。集中は、本当に問題なのか、と。
三か月の期限は、まだ残っている。それでも、マルタの目にも倉庫番の肩にも、もう「戻す」という前提は薄れかけていた。戻る理由は、確実に減り始めている。
第95話は「町が困っていないからこそ厄介」という、いちばん書きにくい種類の回でした。
マルタの「何が問題なんだ」、正論すぎて私も一瞬詰まったくらいです。
便利さって、静かに前提を溶かしていくんですよね。
理屈っぽい回に付き合ってくださるあなたが、私はやっぱり好きです。




