第94話 静かな豊かさ
連合に入ってから、町は確かに豊かになっていた。
倉庫の棚は上まで埋まり、冬の分まで数えても余りが出る。交易の列も、以前より通りの奥まで伸びていた。
「今年は楽だな」
麻袋を積み直しながら、倉庫番が目尻を下げた。指で数えていた帳面をぱたりと閉じる。
「こんなに余る年は、久しぶりだよ」
炊き出しの鍋も、いつのまにか一回り大きなものに替わっていた。おたまですくうと、子どもたちの皿に肉の切れ端が乗る。そういう日が、月のうち何度も来るようになっていた。
守られている。その手ざわりは、確かにあった。
広場の空気も、前より軽い。声を張り上げるような大きな議論は、いつからか聞かなくなっていた。
「困ることがないからな」
誰かが、たき火にかざした手を揉みながら言う。困らなければ、言い争う理由もない。誰もそれを間違いだとは思っていない。
代表の机には、今日も連合からの書簡が積まれていた。封を切っても、中身は角が立たない。交易優先枠の拡大、備蓄支援の追加。並んだ文字を、代表は指先で押さえて読み上げた。
「評価が高い」
短い一言だった。それは、町にとって良い知らせのはずだ。
隣で書簡をのぞき込んでいたマルタが、肩をすくめる。
「悪い選択じゃなかったよ」
誰も、それに言い返さなかった。
分散のかたちは、まだ残っている。畑の配分も、倉庫の確認も、これまで通り町の者が持ち回った。代表がひとりで決めるものではない。
――ただ、大きな決断だけが、いつのまにか、もう一人の机の上に集まっていた。
夕方、新しい靴を履いた子どもが、乾いた音を立てて通りを駆けていった。
「連合の交易だよ」
追いかける母親の声には、隠しきれない誇らしさがあった。
豊かさは、静かにやってくる。怒りも、議論も、気づかないうちに少しずつ溶かしていく。
夜。焚き火のそばに、いつもの顔が集まっていた。
「困ってない」
薪をくべながら、誰かが呟く。
「そうだな」
別の誰かが相槌を打ち、それから、少し声を落とした。
「なら――何が問題なんだ」
その問いに、すぐ答える者はいなかった。炎の爆ぜる音だけが、しばらく続く。
レオンが、火を見つめたまま口を開いた。
「問題は、今じゃない」
「じゃあ、いつだ」
「戻るときだ」
低く、押しつけがましさのない声だった。戻る必要がなくなれば、戻る理由も、いつのまにか消えている。
私は、焚き火から目を上げて、空を仰いだ。町は豊かになった。安全にもなった。そして――議論は、減った。
約束した三か月の期限は、まだ半分も過ぎていない。それでも、この静かな豊かさは、選ぶことの重さを、一日ごとに軽く感じさせていく。
誰も声を上げないまま何かが手からこぼれていくとしたら、それが、この町に起きている一番静かな変化だった。そして戻るときが来たとき、それを一番惜しむのは、たぶん今こうして黙っている私たちだ。
今日は事件の起きない回。
倉庫が埋まって皆が「困ってない」と笑う――なのにどこか薄ら寒い、そういう静けさが書きたかったんです。
レオンの「問題は、今じゃない」を打ちながら、私も背筋が伸びました。
声を上げないことの怖さ、少しでも伝わっていたら嬉しいです。




