第79話 それでも、一人には戻さない
翌朝の広場は静かだった。昨日の遅れは解消され、取引も成立した。損失はない。それでも、空気はどこか軽くならなかった。
「……話した方がいいな」
誰かがぽつりと言った。誰か一人を責めるためではない。昨日の揺れを、そのままにしないためだ。
人が集まってくる。まとめ役の男は、いつもの位置に立たなかった。円の中心から少し横へずれて立つ。その距離が意図的なものであることを、集まった誰もが察していた。
「昨日の確認漏れは、俺の見落としだ」
彼が口を開くと、すぐに別の声が重なった。
「違う。共有の問題だ」
「誰か一人が全部見るのは無理だ」
言葉のあとに沈黙が落ちる。責める沈黙ではない。同意の沈黙だった。
「じゃあ、どうする」
問いは円の中心に転がり込み、けれど誰にも向かなかった。
「代表を戻すか」
小さな声が上がる。言ってしまえば、楽になる。効率も戻るし、外との交渉も滑らかになる。だが、その言葉は広がらなかった。
「戻せば、早い」
別の声が受ける。
「でも、同じになる」
視線が、自然とレオンへ流れた。彼は首を振らず、頷きもしない。ただ、短く言った。
「楽と安定は違う」
言葉は短く、けれど重かった。
まとめ役の男が深く息を吸う。
「俺は、続けられる」
その声に、ざわめきが起きた。彼は構わず続ける。
「続けられるが、全部は無理だ。契約関係は三人確認。物資は担当ごとに最終判断。俺は窓口だけにする」
「名は?」
誰かが問う。
「名は、俺だ」
その言葉に、空気がわずかに張った。
「だが、決めるのは俺だけじゃない」
彼はまっすぐ前を見て言う。
「昨日みたいなことは、仕組みで防ぐ」
完全ではない。だが、後戻りでもなかった。
「一人に戻さない」
誰かが、確かめるように言った。
頷きが広がっていく。全員一致ではない。だが、反対の声も上がらなかった。
私はその輪の外で、ただ聞いていた。これは勝利ではない。理想への到達でもない。ただの、選択だった。
午後になり、確認の表が作られた。三人の印が並ぶ。名は一つ、けれど印は三つ。
夜、焚き火の火は昨日より少しだけ明るく見えた。
「面倒だな」
誰かが笑う。
「でも、潰れない方がいい」
まとめ役の男は、静かに座っていた。疲れはその肩に残っている。だが、孤立はなかった。
私は火を見つめた。不完全な構造。遅い決断。面倒な確認。それでも、一人が壊れる世界よりはましだ。
町は今日も壊れなかった。完璧ではない。だが、戻らないと決めた。それだけが、確かな前進だった。
「名は一つ、けれど印は三つ」。
この地味な一行が書きたくて、今日の回を書いた気がします。
派手な勝利じゃなく、面倒くさい方を選ぶ人たち。
輪の外で黙って火を見ているアルテミシアの横顔が、私はけっこう好きでした。
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