第76話 それでも戻らない
夜更け。焚き火の炎が芯まで落ちて、赤黒い熾火だけが残っていた。町の物音も一つ、また一つと消えていく。
誰も私を呼ばない時間だ。誰の判断も、この時間には動かない。こうして手も口も止まったときにだけ、考えるための余白が生まれる。
戻れば、楽になる。その事実まで否定するつもりはない。私が中心に立てば、こじれた交渉は一本に整理され、責任の所在ははっきりする。外の町も安心して息をつくだろうし、内側でくすぶる迷いも減る。まとめ役をやっているあの男の肩からも、重石が下りる。
戻れば、称賛が集まる。安心が集まる。かつての私はそこに立っていたのだから、それがどんな手触りかは覚えている。
だが、戻れば――視線がまた私一点に固定される。あらゆる判断が私を通り、迷いのすべてが私の責任として積み上がる。失敗も、成功も、区別なく。
重さそのものは問題ではない。重さなら、いくらでも背負える。耐えられないのは、世界がまた「私が決めてくれるのを待つ形」に戻ってしまうことのほうだ。
人は待つ。決めてくれる誰かを、答えをくれる誰かを、責任を引き受けてくれる誰かを。その“誰か”を、私はもう何度も演じてきた。
熾火の脇に、レオンが腰を下ろした。手を伸ばせば触れる、けれど寄りかかりはしない距離だ。
「……楽にできるのに、やらないのか」
咎める色はない。問いの端は、むしろ柔らかかった。
「楽にする方法が、未来まで楽にするとは限りません」
私はそう返した。
「今は、きついだろう」
レオンの声が、少しだけ低くなる。
「ええ」
「それでもか」
「ええ」
沈黙が落ちた。風が熾火をなでていき、灰がわずかに舞い上がって、また闇に沈む。
まとめ役の男は、今日も遅くまで駆け回っていた。あの疲れは、私が戻れば確かに消える。けれど消えたぶんは、別の誰かの肩に、別の形で必ず生え直す。
分散した町は、不完全だ。判断は遅れ、混乱も失敗もある。それでも――不完全であることを、みんなで分け合える。
中心に立てば、外からは完璧に見えるだろう。判断は早く、迷いは少なく、安心が広がっていく。だがその完璧は、たった一人の上にすべて積まれた完璧だ。
「壊れるのが誰か一人で済むなら、町は続く」
私は熾火に向けて呟く。
「でも、それは続きじゃない」
レオンは何も言い返さなかった。その意味を、彼はもう分かっている。
私は立ち上がった。膝についた灰を払う。戻らないという選択は、英雄的でも正義でもない。ただ、いびつな構造を少しずつ変えていくための、地味な拒否にすぎない。
翌朝も、私は前に出なかった。誰かが迷い、誰かが判断を下し、誰かが少しだけ余分に疲れる。それでも、一人が黙って潰れるよりはずっとましだった。
町は今日も壊れなかった。不格好で、効率が悪くて、あちこちが小さく揺れている。それでも私は戻らない。戻らないことこそが、今の私にとって一番重い判断だからだ。
まとめ役の男は、明日また私の名を口にしかけて、飲み込むだろう。その一呼吸ぶんの間に、町は自分で立つ癖を、少しずつ覚えていく。
今日は事件が起きない、火のそばでただ考えるだけの静かな回。
派手さゼロなのに、私はこういう夜のアルテミシアが結構好きです。
「戻れば楽」を全部わかった上で戻らない、あの地味な強情さ。
書きながら、そこまで背負わなくても……とまた苦笑しました。
寄りかからずに隣に座るレオンの距離感も、書いていて心地よかったです。




