第75話 彼女を見る視線
代表という言葉は、もう誰も口にしなかった。代わりに使われるのは、もっと柔らかい言葉だ。「まとめ役」、「窓口」、「今は、あの人」。呼び方が変わるたびに、重さは薄まっていく。だが、消えはしない。
その朝、視線は二方向に流れた。一つはまとめ役の男へ、もう一つは私へ。
「……少し、聞いてもいいか」
炊き出しを手伝っている女が、ためらいがちに近づいてきた。
「何でしょう」
「外の町のこと、分かるんだろう? 契約とか、交渉とか」
声は小さかった。責めてもいないし、期待を押しつけてもいない。ただ、確かめようとしているだけの声だ。
「少しは」と私は答えた。
「じゃあ……」女は言い淀み、それから思い切ったように続けた。「今のやり方、問題ないのか?」
問題ない、と言えば安心するだろう。危うい、と言えば混乱するだろう。私はすぐには答えず、袖口を握った指先にわずかに力を入れた。
「外は、名を求めます」
それだけを口にした。
「……やっぱり、誰か必要なんだな」
女は頷いた。失望でも反発でもない。理解だった。その理解が、喉の奥に小さく刺さった。
昼。別の男が近づいてきた。
「お前が前に出れば、早いんじゃないか」
直球だった。悪意はない。「分かってるだろ、どう動くか」
「前に出れば、早いでしょう」
私が肯定すると、男は少し目を見開いた。
「じゃあ」
その先を、彼は言わなかった。言えなかったのだ。
「ですが」と私は続けた。「早いことと、正しいことは、同じではありません」
男は黙った。理解はしていない。だが、否定もしなかった。
広場の端で、まとめ役の男が声を張った。
「小麦の追加分、午後に確認する」
人が動きだす。誰も私を見ない。だが、さっきの視線は、まだ空気のどこかに残っていた。
戻れば、楽になる。それは分かっていた。交渉は整い、説明は簡潔になり、判断は早くなる。そうして、また中心ができる。
レオンが近づいてきた。
「……呼ばれているな」
小さな声だった。
「ええ」
「戻る気は」
問いは途中で止まった。
「ありません」
私は即答した。レオンは頷く。賛成でも反対でもない。やはり、理解だった。
夕方。まとめ役の男が、子どもに呼び止められていた。
「ねえ、次は?」
些細な問いだ。彼はしゃがみ、目線を合わせて優しく答える。その姿は、信頼そのものだった。
人は、信頼できる顔を求める。説明できる人、決めてくれる人、責任を背負ってくれる人を。
夜。焚き火の火が揺れた。誰かが小さく言う。
「やっぱり、中心はいるよな」
誰も否定しない。否定しないことが、そのまま合意になっていく。
私は火を見つめた。沈黙は、選択だ。だが、沈黙は空白も生む。そしてその空白は、いつか誰かで埋まる。
町は今日も壊れなかった。私を見る視線も、消えてはいない。焚き火を囲んだ誰かの「中心はいるよな」という一言は、否定されないまま夜のなかに残り、明日には形を欲しがるだろう。戻らないという選択は、何も失わないわけではない。ただ、失う形が変わるだけだ。
「戻れば楽になる」と分かっていて戻らない。
今日のアルテミシアは、書いていていちばん胃が痛いタイプの強情さでした。
「早いことと正しいことは同じではありません」――正論だけど、正論って基本、その場では感謝されないんですよね。
それでも折れない彼女を、私は今日もそっと応援しています。
焚き火の火みたいに、この物語を見守っていてもらえたら嬉しいです。




