第58話 安心という圧力
朝の広場は、
穏やかだった。
声は低く、
動きはゆっくり。
争いの気配はない。
だが――
どこか、
息が詰まる。
一人の若者が、
倉庫の前で
立ち止まっていた。
荷を抱え、
中を覗き込む。
「……今日のうちに、
片づけようと思って」
独り言のような声。
「急がなくていいよ」
すぐ後ろから、
柔らかい声がした。
「まだ、
決めなくていい」
責める調子ではない。
むしろ、
気遣いだ。
若者は、
一瞬だけ
荷を持ち直した。
「……そうですね」
そして、
荷を下ろす。
誰も、
それを問題にしない。
私は、
その様子を
少し離れた場所から
見ていた。
今の言葉に、
悪意はない。
だが――
行動は、
止まった。
別の場所。
水路の点検をしていた
女が、
声を上げる。
「ここ、
今のうちに
直した方が――」
「大丈夫」
すぐに、
遮られる。
「今は、
問題ないから」
その言葉に、
女は黙る。
「無理しないで」
「焦らなくていい」
同じ言葉が、
何度も
重なる。
それは、
親切だ。
だが――
選択肢を狭める親切だ。
昼。
炊き出しの準備を
始めようとした者が、
立ち止まる。
「今日は、
どうする?」
問いは、
誰かに向けられていない。
だが、
返ってくる答えは
決まっている。
「様子見で」
それで、
全員が
納得する。
私は、
胸の奥で
小さく息を吐いた。
この空気は、
もう
「自由」ではない。
安心が、
行動の基準になっている。
午後。
一人の男が、
子どもを連れて
広場を歩いていた。
「……今日は、
外で遊ばせても
いいかな」
誰かに
聞いているわけではない。
だが――
周囲の反応を
待っている。
「無理しなくていいよ」
「今日は、
静かにしてた方が」
その言葉で、
男は頷く。
「……そうだな」
判断は、
彼のものだったはずだ。
だが、
もう
そう感じていない。
私は、
その様子を
ただ見ていた。
ここで
「自分で決めていい」と
言えば、
空気は変わる。
だが――
それは
私が
前に立つことになる。
夕方。
広場の隅で、
一人の女が
苛立ちを隠せずにいた。
「……やった方が
いいと思うんだけど」
小さな声。
すぐに、
別の声が被さる。
「焦る必要、
ないよ」
その瞬間、
女は
口を閉じた。
その顔に、
怒りはない。
あるのは、
引き下がった感覚だ。
私は、
はっきりと理解した。
ここではもう、
「急ぐ人」が
浮く。
善意が、
行動を抑える
圧力に
変わっている。
夜。
焚き火の周りで、
人々は穏やかだ。
今日も、
大きな問題は
起きていない。
だが、
動かなかったことが
確実に
積み重なっている。
レオンは、
少し離れた場所で
それを見ていた。
彼は、
何も言わない。
言えば、
判断になる。
言わなければ、
空気が続く。
どちらも、
彼の責任になる。
私は、
目を閉じた。
安心は、
人を救う。
だが――
安心が
「正解」になった瞬間、
人は
それ以外を
選びにくくなる。
この町は、
今日も静かだ。
だが、
静けさは
中立ではない。
それは、
方向を持った力だ。
誰も急がない方向へと
押し返す力。
私は、
何も言わない。
この圧力は、
言葉で
解けるものではない。
次に必要なのは、
正論ではなく――
困る現実だ。
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