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断罪された公爵令嬢は、完璧であることをやめました  作者: 月影 すずり


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第57話 誤読された思想

 朝の広場に、小さな人だかりができていた。集会というほどではないが、立ち止まる者が妙に多い。


「……前に、あの人が言ってただろ」若い男が、少し得意げに切り出した。「急いで決める必要はない、って」


 その言葉に、周囲がいくつも頷く。私は少し離れた場所で、それを聞いていた。確かに、そう言った。だが、その続きを彼は口にしていない。


「だからさ」と男は続ける。「今日も、無理に決めなくていいんだ」


「そうだな」


「焦ると、余計な衝突が起きる」


 柔らかい言葉だった。善意だ。


 別の女が、少し不安そうに口を挟んだ。「でも……昨日、困った人もいたよね」


 一瞬、空気が止まる。「それは」男は言葉を探すように視線を泳がせ、「……仕方ないだろ。誰かが無理をするより、いい」


 その理屈は、間違っていない。だが、便利すぎた。


「ほら、あの人もそういう考えだろ?」男はそう言って、私の方へ顔を向ける。視線が一斉に集まった。


 私は何も言わなかった。肯定もしない、否定もしない。それだけで、集まった人々は彼の言葉を私の肯定として受け取っていく。


(……使われている)指先の力を、そっと抜く。不快ではなかった。予想の範囲だ。


「決めないって、楽だよな」誰かが笑う。「間違えなくていいし」「責められない」その声が、次々に重なった。


 私の言葉は、間違えないための免罪符ではない。だが、そう使われ始めている。喉の奥が、わずかに乾いた。


 昼。炊き出しの準備は、遅れたままだった。「今日は、様子見でいいよな」誰かが言うと、別の誰かがすぐに同意する。「決めない」ことが、安全な選択として町に根を張り始めていた。


 レオンは、少し離れた場所からそれを見ていた。口は開かない。止めれば自分の判断になる。止めなければ、流れが続く。どちらも彼の負担だ。


 ふと、彼と目が合った。ほんの一瞬。彼は何か言いたそうに唇を動かしかけて、結局、何も言わなかった。それも、一つの選択だった。


 午後になると、別の場所でも同じ言葉が繰り返されていた。「あの人がそう言ってた」「急がなくていいって」思想が、短い文に切り取られていく。文脈は、きれいに削げ落ちていた。


 私は訂正しなかった。ここで「違う」と言えば、私が前に出る。それは、この町が再び私を中心に回り始める合図になる。


 夕方。一人の老人が、荷を前に立ち尽くしていた。「……運ぶか、明日にするか」誰にともなく呟く。返事はない。やがて彼は荷を地面に置き、「今日は、決めない日だな」と笑った。


 私は、その笑顔を忘れなかった。軽い笑いだ。だが、その足元で、選択肢が一つ減っていた。


 夜。焚き火の周りで、人々は穏やかだった。議論はなく、反論もない。ただ、同じ言葉だけが繰り返される。「無理に、決めなくていい」


 火を見つめながら、私は理解した。思想は、誤解されるのではない。使いやすい形に削られていくのだ。それは誰の悪意でもなく、安心したいという欲求の、ごく自然な帰結だった。


 この町は、今日も壊れない。だが、考えるための言葉が確かに減っていく。残るのは、都合のいい断片だけ。


 それでも、私は何も言わない。この誤読は、止めるべきではなかった。止めれば、私が正解の管理者になる。それだけは、避けなければならない。


 問いは、誰のものでもない。だが、答えを急ぐ者は、必ず短い言葉を欲しがる。今朝の若い男は、明日にはこの断片を旗印にして、もう一歩前へ出るだろう。その足音が、焚き火の向こうで小さく鳴り始めていた。

今日はうんと理屈っぽい回。

人の善意が、いちばん静かに言葉を削っていく――書きながら少し背筋が寒くなりました。


訂正すれば楽なのに、あえて黙るアルテミシア。

あの沈黙、あなたにはどんな音で届いたでしょう。

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