第56話 問いを残す人、答えを求める人
雨上がりの広場はぬかるんでいて、足元に気をつけなければ、裾はすぐに泥で汚れた。町の空気も、どこか同じように重く湿っている。
レオンは木箱に腰掛けていた。誰かを待っているわけではない。ただそこにいる。それが、いつのまにか彼の役目になりつつあった。
「……今日は、決めなかったんですね」
私が声をかけると、彼は肩を小さく跳ねさせ、こちらを見た。それから、ゆっくりと頷く。
「決めなかった、というより」
一瞬、言葉を探すように視線が宙をさまよった。
「決められなかった」
飾らない言い方だった。
「理由は?」
「理由を言うと、それがもう判断になるから」
彼は困ったように口の端を上げた。その笑みに、余裕はない。目の下に、隠しきれない疲れが滲んでいた。
私は彼の隣に立った。並ぶが、向き合わない。この距離が、今はちょうどいい。
「……人は、困りました」
私は静かに言った。非難ではなく、ただの報告だ。レオンはすぐに否定しなかった。否定できないからだ。
「分かっています」
短い答えが返る。
「だから、明日は何か決めるでしょう」
その言葉は、私にというより、自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
「それを、あなたが?」
問いは、穏やかに置いた。それでも、核心には触れている。
レオンは、わずかに目を伏せる。
「……今のところは」
否定も、肯定もしない。曖昧だが、現実的な答えだった。
広場では、人々が濡れた地面を避けながら行き交っている。その誰もが、意識しないまま彼の方へ視線を送っていた。
「あなたは」
レオンが顔を上げ、こちらを見た。
「どうして、何も言わないんですか」
責める調子ではない。純粋な疑問だった。
「言えば、変わるからです」
私は即答した。
「変わった結果を、私が引き受けることになる」
彼は黙って聞いている。
「……それは、悪いことですか」
「いいえ」
私は首を振った。
「ですが、長く続く形ではありません」
それだけ言って、口を閉じる。雨後の広場に、また沈黙が落ちた。レオンは空を見上げる。雲の切れ間から、細い光が差していた。
「人は」
彼がぽつりと言う。
「楽になりたがります。……楽になった人を、責められません」
「ええ」
私は頷いた。
「だからこそ、問いを残す人が必要になります」
レオンは眉をひそめた。
「……問いを残すだけで、いいんですか」
声には、まだ半分の疑いが残っている。
「十分です」
私はそう答えた。
「問いは、誰かが答えを出さなくても存在できます」
だが、彼はその答えに納得していなかった。
「それだと」
レオンは、言葉を選ぶ。
「困る人が、出る」
私は否定しなかった。
「出ます」
即答だった。その一言で、二人のあいだの空気が張り詰める。
レオンはしばらく黙っていた。やがて、喉の奥から小さく息を吐く。
「……あなたは、答えを出さない人だ」
「ええ」
私は認めた。
「俺は」
彼は、視線を私に戻した。
「答えを求められる人です」
自嘲ではない。ただ、自分の立っている場所を確かめる声だった。
人々が、また動き始める。誰かが、レオンの名を呼んだ。彼は一歩踏み出し、そして立ち止まる。
「……今日は、これで」
小さな声だった。それでも、周囲は頷く。また一つ、答えが出てしまった。
彼は、私を振り返らなかった。私も、引き止めなかった。
この会話に結論はない。だが、問いだけは確かに残った。
問いを残す人と、答えを求める人。どちらも、間違ってはいない。ただ、同じ場所には立てない。
明日、彼はまた誰かの求めに応えて何かを決めるのだろう。そのたびに開いていく距離を、私は隣で見届ける立場に留まった。
第56話は事件も断罪もない、言葉だけで進む静かな回でした。
書きながら「地味すぎるかな」と何度もためらったのですが、答えを出さないアルテミシアと、出さされてしまうレオンの噛み合わなさが好きで、結局筆が止まりませんでした。
どちらも間違っていないのが、なんとも。




