第59話 誰のための余白か
朝、子どもの泣き声で目が覚めた。遠くない。町の中だ。
広場へ出ると、一人の女が子どもを抱いて立っていた。顔色が悪い。
「……どうしました」
声をかけると、女は少し迷ってから答えた。
「熱が、下がらなくて」
子どもの額に手を当てる。熱い。昨夜からだという。
「薬は?」
「あります」
それなのに、使った様子がない。
「……量を、どうするか」
女は言葉を選ぶように、目を伏せて続けた。
「昨日、決めないって言ってたから」
誰が、とは言わない。言わなくても分かることだった。
私はすぐには答えなかった。ここで「使っていい」と口にすれば、それは一つの判断になる。目の前で子どもが小さく身をよじって苦しんでいても、だ。
少し離れた場所で、年配の男が咳き込んでいた。背を丸め、息が浅い。
「……今日は、休んだ方が」
誰かが言う。
「そうだな」
男は素直に頷いた。けれど、彼の仕事には代わりがいない。倉庫の扉は閉じたままだ。中に必要な物があるのに、誰も開けようとしない。
「今日は、決めない日だ」
誰かが小さく言う。その一言に、私は知らず息を詰めていた。
余白は、誰かを休ませる。同じ余白が、休めない人を置き去りにする。
女が子どもを抱き直した。
「……すみません」
謝る理由などない。それでも彼女はそう言った。この場の空気を乱してしまった、とでもいうように。
私は彼女の目を見た。そこに怒りも不満もない。あるのは遠慮だけだった。
「……少し、外で風に当たります」
女はそう言って歩き出す。子どもは泣き止まない。その背中を、誰も止めなかった。止める理由が見つからないのだ。助ける判断が誰のものなのか、誰にも分からないからだ。
別の場所では、老いた男が咳をしながら作業を続けていた。
「無理しないで」
声がかかる。
「……大丈夫」
彼はそう答える。休めと言われれば休む。だが、休ませた結果を誰も引き受けない。
指先が冷えていくのを感じながら、私ははっきりと理解した。余白は平等ではない。体力のある者、余裕のある者にこそ有利に働く。余白を使えない人が、必ず出る。
昼。女はまだ戻らない。子どもの泣き声は遠くなった。それが良いことなのか、私には分からなかった。
レオンは少し離れた場所で立ち尽くしていた。状況は分かっている。それでも彼は動かない。動けば、また判断が彼のもとへ集まるからだ。
私は初めて、強く思った。これは誰のための余白なのか。安心して立ち止まれる人のためか。それとも、立ち止まりたくても立ち止まれない人のためか。
夕方。子どもは少しだけ熱が下がったという。だが、女は町に戻ってこない。「様子を見ます」とだけ伝えてきた。
私は何も言わなかった。ここで答えを出せば、一時的に救える人はいる。けれど、構造は何も変わらない。
夜。焚き火の周りで、人々は静かに過ごしている。誰も今日のことを話題にしない。重すぎるからだ。
私は空を見上げた。余白は悪ではない。だが、万能でもない。
それを突きつける出来事は、もう始まっていた。熱の下がりきらない子を抱えたまま女は帰らず、倉庫の扉は今も閉じている。この町は今日も壊れなかった。だが守られたのは場の空気であって、全員ではない。
誰のための余白か。その問いはもう抽象ではなく、身体の重さを伴って、ここにある。
「決めない日」を作ったアルテミシアに、今日は私がそっと反論を書きました。
余白は優しい、でも平等じゃない。
熱の下がらない子を前に立ち尽くす彼女を、書きながら私も一緒に息を詰めていました。
答えの出ない回にここまで付き合ってくださって、ありがとう。




