第5話 悪役令嬢の役目
夜の公爵家は、驚くほど静かだった。
王立学院で過ごす一日は、常に人の視線と感情に晒されている。
それが嘘のように、ここには誰の期待も、評価もない。
――いいえ。
正確には、期待だけがある。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
扉を開けた瞬間、深く頭を下げるのは、メイド長のマリアンヌだった。
その声を聞いた途端、胸の奥で張り詰めていたものが、わずかに緩む。
「お疲れでしょう」
「……ええ。少し」
それだけ答えて、私は椅子に腰を下ろした。
完璧な姿勢を保とうとしたが、今日はうまくいかなかった。
指先が、かすかに震えている。
「学院で、何かございましたか」
マリアンヌは、決して踏み込みすぎない。
それでも、すべてを見抜いている目をしている。
「……殿下が、私を止めました」
口に出した瞬間、胸が痛んだ。
言葉にするつもりはなかった。
だが、溜め込めるほど、私は強くなかった。
「規則を伝えただけです。
それでも、『空気を読むべきだ』と」
マリアンヌは、何も言わなかった。
ただ、静かにお茶を差し出す。
その沈黙が、かえって苦しかった。
「私が……間違っているのでしょうか」
問いは、自然と零れ落ちた。
長い沈黙のあと、マリアンヌが口を開く。
「お嬢様は、間違っておりません」
きっぱりとした声だった。
「では、なぜ……」
「それは」
マリアンヌは、少しだけ目を伏せた。
「この国が、“正しい者”を好まないからです」
胸を、鋭く突かれた。
私は、幼い頃の記憶を思い出す。
剣の持ち方。
言葉遣い。
感情の抑え方。
『王太子の婚約者は、弱さを見せてはなりません』
『嫌われても構いません。
殿下が正しくあれるなら、それでよいのです』
父も、母も、教師も、
皆、同じことを言った。
――誰かが、悪役にならなければならない。
私は、その役を与えられただけ。
「……私は」
声が、掠れた。
「殿下の隣に立つために、ここまで来ました」
笑われても、
疎まれても、
誤解されても。
「それでも、殿下が“優しさ”を選ぶなら……」
言葉が、止まる。
マリアンヌは、静かに言った。
「それでも、お嬢様は、お嬢様でいられます」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
――そうだ。
私は、誰かに好かれるために存在しているわけではない。
公爵令嬢として。
王太子の婚約者として。
この国の未来を背負う者として。
必要なら、嫌われよう。
恐れられよう。
悪役と呼ばれよう。
「……私は、引きません」
私は、はっきりと言った。
「殿下が、空気を選ぶなら。
私は、正しさを選びます」
それが、どれほど孤独でも。
マリアンヌは、微かに微笑んだ。
「それでこそ、お嬢様です」
その夜。
私は机に向かい、学院の規則書を開いた。
すでに暗記しているはずの内容を、もう一度、指でなぞる。
(これが、私の剣)
情ではなく。
涙でもなく。
理で戦うための武器。
そして、私は理解していた。
この剣は、
いつか必ず、私自身にも向けられる。
それでも。
逃げるつもりはなかった。
――悪役令嬢の役目とは、
皆が目を逸らす現実を、
最後まで見据え続けることなのだから。
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