第4話 優しさの偏り
誰かが明確な悪意を向けたわけではない。
だからこそ、始末が悪かった。
昼下がりの回廊。私は足を止め、目の前の輪を見つめていた。
「エリナ、大丈夫?」
「分からないことがあったら、何でも聞いてね」
弾む声。柔らかな眼差し。その中心に、エリナ=ミルフォードがいる。
数日前まで、誰もその名を知らなかった。それが今では、昔からそこにいたかのように、輪の真ん中に収まっている。
好意ではない。庇護だ。
努力しているから。可哀想だから。泣きそうだから――理由など、どれでもいい。要は、“守りたい対象”に選ばれた。それだけのことだ。
「アルテミシア様……」
エリナが私に気づいて声をかける。
その途端、輪の温度が下がった。笑みが引っ込み、視線が集まり、言葉にならない圧が空気を固くする。
――私が来たから。
「提出物の形式が違っています」
私は淡々と告げた。
「規定では、二枚目以降に家名を記す必要があります」
「……す、すみません」
エリナは慌てて頭を下げる。その仕草ひとつが、周囲の感情を逆撫でした。
「そんな細かいところまで」
「そこまで言わなくても」
小さな声。だが確かに、私へ向けられている。
細かい、か。
提出物の不備一つで評価が動き、家の将来まで左右される世界で、「細かい」で片づけられるものなど何ひとつない。それを、彼女はまだ知らない。教えずに笑っているこの輪も。
「彼女は、まだ慣れていないのです」
その声が、決定打だった。
レオナルト殿下。いつのまにか、輪のすぐ外に立っていた。
「殿下……」
「アルテミシア。もう十分だ」
穏やかな声。けれど私に向けられたそれは、まぎれもない拒絶だった。しかも今度は、回廊のこちらとあちら、両側の生徒全員が見ている場所で。
「十分、とは」
私は、退かなかった。
「規則を伝えることが、ですか」
殿下は一瞬、言葉に詰まる。
「……君の言うことは、正しい」
また、それだ。正しい、と認めながら、正しさの側には立たない。
「だが、今は彼女を責める時じゃない」
「責めてはおりません。教えているだけです。殿下、特例が常態化すれば、いずれ彼女は――」
「分かっている!」
殿下の声が、はじめて硬くなった。周囲が、息を呑む。
「……でも、皆が見ているんだ。今は、空気を読むべきだろう」
空気。
その一語で、私の足元が音もなく崩れた。
正しさよりも、空気。規則よりも、感情。
この国の王太子が、大勢の前で、はっきりとそちらを選んだ。私を退けることで、輪の側に立ってみせた。
「……承知しました」
私は、静かに頭を下げる。
ここで言い返せば、私はただ「感情的な悪役令嬢」になるだけだ。彼が引いた線を、自分の手で濃くするだけだ。
エリナは、殿下の背に半ば隠れて、私を見ていた。
怯えと、安堵と、わずかな安心。守られた者の顔だった。
喉の奥が、灼けるように熱くなる。
「アルテミシア様って、厳しすぎない?」
「完璧を、押しつけてるだけじゃ」
誰かが、はっきりと口にした。
それを否定する声は、どこからも上がらなかった。沈黙が、答えだった。
私は、そこに立っていた。誰よりも正しく、誰よりも独りで。
――理解してしまう。
優しさは、選ばれた者にだけ配られる。そして選ばれなかった者には、黙って耐える役が回ってくる。
ふと、奇妙な考えがよぎった。
私はこの役を、いつ、自分で引き受けると決めただろう。
冷静であれ、正しくあれ、嫌われても構わない――そう言ったのは、いつも私ではない誰かだった。父。母。教師。そして今、空気を読めと言ったこの人も。私はただ、与えられた役の輪郭を、律儀になぞってきただけではないか。
考えかけて、私はその問いに蓋をした。今は、そんなことを問うている場合ではない。
鐘が鳴り、生徒たちが散っていく。
誰も、私に声をかけなかった。振り返る者すら、いない。
私は、一人で歩き出す。背に、いくつもの視線を刺したまま。
冷たい。怖い。悪役令嬢。
そのすべてを、私は黙って受け取った。
叫びたかった。間違っている、と。このやり方では、いずれ誰も救われない、と。
けれど、王太子の婚約者は、感情を表に出してはならない。正しさを、剣のように握り続けるしかない。それが、この国が私に“与えた”役目だから。
――蓋をしたはずのあの問いだけが、胸の底で、まだ小さく灯っていた。
今日のアルテミシア、正しいのにひとりぼっち。
「空気を読め」の一言で足元が崩れる場面、書きながら私まで喉が熱くなりました。
でも最後、彼女の胸で小さく灯った問いが、私はけっこう好きなんです。
そこ、覚えておいてもらえたら。
よければブクマの★を、そっと。




