第3話 規則という名の壁
王立学院には、目に見えない境界線がある。
壁でも柵でもない。生まれと立場、そして「誰に守られているか」で、ひとりでに引かれてしまう線だ。
昼休み。中庭に面した回廊は、談笑する生徒たちで賑わっていた。日向に集まる令嬢たちの笑い声、噴水の水音、焼きたてのパンを回廊まで運んでくる風。私は柱の陰から、少し離れてその光景を見ていた。
「……あ」
小さな声が、耳に触れた。
目を向けると、エリナ=ミルフォードが、白い敷石の上で足を止めている。回廊の中ほど、彫刻を施した円柱に区切られたそこは、貴族専用に定められた区画だった。
差別ではない。使う者を分けておかなければ、諍いの種になる。だから、秩序として線が引かれている。
彼女は、その線に気づいていない。
昨日、注意はした。それでも、見過ごせば――
周囲の視線が、すでに彼女とこちらを、交互に窺い始めている。扇の陰の囁きが、風より速く回廊を渡っていく。
私は、敷石を鳴らして歩み寄った。
「エリナ=ミルフォード」
彼女は、肩を跳ねさせて振り返る。
「は、はい……?」
「そこは、貴族専用区域です。あなたに使用の許可は出ていません」
声は低く、静かに。感情を一滴も混ぜないよう、言葉の縁を丁寧に削った。
エリナは、きょろきょろと足元と周囲を見比べ、みるみる頬を染めた。
「す、すみません……知らなくて……」
「知らなかった、では済みません」
言い切った瞬間、空気が、ざわりと粟立った。
背に、無数の視線が刺さる。囁きの温度が、一段下がったのが分かる。冷たいのは私の言葉ではなく、それを聞いている彼らの目のほうだった。
それでも。
「学院では、規則を守れない者から順に、居場所を失います。それは、あなたが平民だからではありません」
私は、一歩も退かなかった。
「特別扱いは、あなたを守りはしません。むしろ――」
「アルテミシア」
言葉の先を、聞き慣れた声が断ち切った。
レオナルト殿下。回廊の向こうから、まっすぐにこちらへ歩いてくる。
「そのくらいで、いいだろう」
穏やかな口調。だがその一言は、私と彼女のあいだに置かれた天秤を、はっきりと片側へ傾けた。周囲の誰の目にも見える形で。
「殿下……」
喉の奥が、ひくりと鳴った。
「彼女はまだ慣れていない。最初から完璧を求めるのは、酷というものだ」
そう言って、殿下はエリナへ向き直る。
「大丈夫だ。次から気をつければいい」
エリナは、救われたように息をついた。
「は、はい……ありがとうございます……」
その瞬間だった。
――私が、悪者になった。
規則を告げた者と、慣れない子を庇った者。回廊にいた全員が、たった今、どちらの側に立つべきかを教えられた。生徒たちの目の色が、露骨に変わっていく。
「厳しすぎない……?」
「そこまで言わなくても」
小さな囁きが、確かに私の背へ向けられている。
違う。これは、彼女のためだ。
――喉まで上がったその言葉を、私は飲み込んだ。ここで感情を見せれば、「やはり高慢な令嬢だ」と、囁きに証拠を与えるだけだ。
「……殿下」
私は、静かに頭を下げた。
「ご判断、承知しました」
それ以上は、言わなかった。
言えなかったのではない。言わないことを、選んだ。
殿下は、秩序ではなく庇護を選んだ。皆の見ている前で。
その選択が意味するものを、たぶん彼はまだ分かっていない。線を一度ゆるめれば、次は誰が、どこまでを「酷だ」と言い出すのか。守られる者と、守られない者の境目が、今日この回廊で引き直されたのだということを。
エリナは、私をちらりと見て、すぐに視線を逸らした。
怯えたような、困ったような――そして、どこか救われたような目だった。
通りすがりに、私は帯に挟んだ手帳から一枚を破り、彼女の手にそっと押しつけた。さっき告げた区域の条項を書きつけた紙片だ。番号は、私だけの略号で記してある。長い条文をいちいち書き写す手間を惜しんで、学院に入った頃から使い続けている、私にしか読めない走り書きだった。
「便覧で、自分で引きなさい。人に借りた理解は、いざという時あなたを守りません」
エリナは、見慣れない記号の並んだ紙片を、戸惑ったように見下ろしていた。それでも、握った指は開かなかった。
壁を作ったのは、私だろうか。
いいえ。私は、最初から壁のこちら側に立たされている。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り、生徒たちが散っていく。
私は誰とも目を合わせず、教室へ向かった。背に、はっきりとした孤立の重みを感じながら。
正しさは、いつも独りだ。
それでも、退くわけにはいかなかった。王太子の婚約者として。この国の秩序を、誰かが引き受けねばならないのなら。
教室の窓から中庭を見下ろすと、エリナの周りには、もう新しい輪ができ始めていた。守りたい者たちの、優しい輪が。
その輪が大きくなるほど、規則を口にする私の声は、余計に硬く、余計に冷たく響くようになる。
次に彼女へ言葉を向けるとき、それを聞いているのは、今日より多くの目だ。
「悪者になった」と書いた瞬間、私まで少し息が詰まりました。
反論だってできたのに、アルテミシアは黙ることを"選ぶ"んですよね。
この強情さ、見ていて歯がゆいのに目が離せません。
破いた紙片をそっと握らせるところ、書いていていちばん好きな一瞬でした。




