第42話 正しさの余白
道は、まだ整備されていなかった。舗装は途中で途切れ、地面には車輪の跡がそのまま残っている。それでも通れないわけではない。この頃は、世界のあちこちにそういう場所が増えていた。
「……こちらは、お引き受けできません」
差し出された書簡を、私は相手の手にそっと押し戻した。男は戸惑ったように目を瞬かせる。
「理由を、お聞きしても」
「理由があるから断っているわけではありません」穏やかに、私は答えた。「ここは、すでに回っています」
回っている場所に、私が入っていく理由はない。
男はしばらく黙っていた。やがて「……それでも」と言いかけ、その先を飲み込む。彼が欲しいのは助言ではない――口の動きの止まり方で、それはわかった。保証だ。「あなたが関わった」という、ただの印。私はそれを渡さずに背を向けた。
町を離れ、一人で街道を歩く。
以前の私なら、こんな依頼を断ることはなかった。断らなければ誰かが困る。そう思い込んでいたからだ。けれど今は違う。困らない世界を目指してきたのだから、もう困らない場所に立ち続ける理由はない。そう思うと、足の運びは以前より軽かった。
途中の宿場町で昼を取った。簡素な食事に、雑多な客。誰も私の名を知らない。その匿名は、舌に残る粗いパンごと心地よかった。
「……最近さ」隣の席で、誰かが声を潜めた。「揉め事が減ったよな」
「どこの話だ」
「南の方さ。小さな共同体だけど」
私は椀に口をつけたまま、耳だけをそちらへ向けた。
「決断が早いらしい」
「誰が」
「さあ。名前は知らん」
名も知らぬまま、それでも噂だけは口から口へ渡っていく。
「迷わない人がいるって」
その一言で、箸の先が止まった。
「正しさを押しつけるわけじゃないらしい。でも、話してると安心するんだと」
「……それ、いいことじゃないか」
軽い笑い声が上がる。誰も、その話を疑ってはいなかった。今のところは、まだ。
宿を出ると、風が強く吹きつけていた。頭上を雲が速い足取りで流れていく。世界は整ってなどいない。けれど、止まってもいない。
(……正しさの余白)
口の中で、私はそう名付けた。誰も答えを持たず、誰も責任を引き受けない空間。そこに人は耐えられるのか。それとも、耐えきれずに誰かを置き去りにするのか。
夕暮れ。道の先に、小さな町の影が見えた。地図に印はなく、私を呼んだ者もいない。それでも、足はそちらへ向いた。
呼ばれない場所で何が起きているのか、この目で見ておきたかった。正しさを手放した世界で、人が次に何を求めるのかを。
日はゆっくりと沈んでいく。私は名もない町の入口を、静かにくぐった。
ここから先は、まだ誰の物語でもない。けれど空いた余白は、遅かれ早かれ何かで埋まる。それが希望なのか、それとも新しい依存なのか――答えを急ぐ必要はない。私はただ、暮れていく道を歩き続けた。
「もう回っています」と依頼を押し戻して背を向ける彼女に、書いてる私まで少し寂しくなりました。
でも、必要とされないことを選べるって、いちばん強い自立かもしれません。
噂の中で名前を伏せられたまま歩く彼女が、今日はやけに大人びて見えました。




