第35話 裁定を求める声
要請は、静かに、しかし確実に増えていった。最初は個別の相談という形だった。
「この判断は、連合の思想に沿っていますか?」
「我々の対応は、正しかったのでしょうか?」
どれも“確認”の体裁をまとっていた。だが言葉の下から透けて見えるものは、いつも同じだった。決めてほしい――そう書いてある。
書類の束が机の上に積まれていく。私は一枚ずつ指で繰り、目を通した。判断の経緯があり、数値があり、代替案が添えられている。どれも論理として破綻していない。破綻していないからこそ否定できず、否定できないから、私の口からも答えは出せなかった。
「……アルテミシア様」
マリアンヌが、言葉を選ぶように口を開いた。
「最近、皆の視線が……」
「分かっています」
私は書類から目を上げずに答えた。あの視線が何を意味するのかは、とうに知っていた。あれは期待だ。抱えきれない不安を代わりに引き受けてくれる誰かを、皆が探している。そして都合の悪いことに、この場で“正しかった人間”は、私だった。
午後、臨時の集会が開かれた。議題は北部第七領の件、その再発防止策についてだった。
「今後、夜間医療供給をどの程度確保すべきか」
議長がそう切り出し、数字が卓上に並べられる。効率と安定性のバランス。議論は同じ場所をぐるぐると回り、煮詰まっていった。
やがて、視線が一斉にこちらへ向いた。
「……あなたは、どう思いますか」
その一言で、場が静まり返る。私はゆっくりと息を吸った。この瞬間が来ることは、椅子に腰を下ろしたときから分かっていた。
「私は、判断しません」
はっきりと言い切ると、部屋の端でざわめきが起きた。
「ですが」
私は続けた。
「判断の材料は、すべて共有します」
手にした資料を、机の中央へ滑らせる。
「夜間対応を維持した場合の負荷」「縮小した場合のリスク」「第三の案」――紙を一枚ずつ、指先で押し出した。
「選ぶのは、各領です」
逃げではなかった。ここへ来てから私が選び続けてきた、ただ一つの立場だ。
「……それでは、責任が分散しすぎます」
誰かが低く言った。
「誰も、決めきれなくなる」
「ええ」
私は否定しなかった。
「だから、決める人間が必要だと――皆さんはそう思っている」
視線が、いっそう私に集まる。私は椅子から立ち、一歩だけ前に出た。
「ですが、それを私が引き受けた瞬間、連合は終わります」
重い沈黙が落ちた。
「正しさは、一人の人間に集めてはいけない。集めた瞬間、誰かは“考えなくてよくなる”のです」
それは、王都で私が見てきたことだった。喉の奥で、その記憶が一度だけ疼いた。
「……では、どうすればいいのです」
問いかけた声は、疲れ切っていた。私はその声を、まっすぐ受け止めた。
「悩み続けてください」
言えることは、それしかなかった。
「迷うことを、やめないでください」
完璧な判断など、どこにもない。ないからこそ、判断を誰かに預けてはいけないのだ。
集会は、重い空気を引きずったまま終わった。誰も納得してはいない。それでいて、反論の声も上がらなかった。その静けさこそが、一番危うかった。
夜。私は一人で廊下を歩いた。背後から、抑えた声が追いかけてくる。
「……やはり、彼女しかいないのでは」
「でも、断られた」
「それでも……」
私は足を止めなかった。振り返りもしなかった。振り返れば、その瞬間に私は“裁定者”になってしまう。
部屋に戻り、椅子に腰を下ろす。抜けていた力が、一気に戻ってきて肩にのしかかった。
拒否するだけでは、もう足りない。あの声が廊下に残っているうちは、私は繰り返し同じ問いに引き戻される。いずれもっとはっきりと、拒絶しなければならないのだろう。その一言が、連合を割る。分かっている。それでも私は、誰かの代わりに決めないという選択を、選ぶしかなかった。
「決めてほしい」と差し出される椅子を、アルテミシアはまた静かに蹴り返しました。
楽な側へ一歩も動いてくれないので、書いている私は毎回ひやひやします。
それでも「悩み続けてください」って、突き放すようでいて一番誠実な返事ですよね。
今日はちょっと理屈っぽい回。
ここまで付き合ってくださるあなたに、こっそり感謝を。




