第33話 救われない選択
事故は、記録上は小さなものだった。
北部第七領、郊外の水路。循環調整の遅延で、一時的に医療用魔力が不足した。影響人数は三名、死亡者はなし。報告書には、そう書かれている。
現地を訪れたのは、その三日後だった。町は静かで、騒ぎも怒号もなかった。表通りには荷車が行き交い、店先には積まれた野菜が朝の光を受けていた。
「……大事には、ならなかったんです」
領の担当者は、同じ言葉を何度も繰り返した。
「連合基準に沿って再編していたので、全体としては安定しています」
私は頷きながら聞いた。間違ってはいない。本当に、どこも間違ってはいない。
問題の家は、町外れにあった。質素な造りだが、窓枠も戸口も手入れが行き届いている。
「こちらです」
案内された部屋には、年老いた男性が寝かされていた。顔色は少し悪く、浅い呼吸に合わせて薄い掛布がわずかに上下していた。
「発作が起きたのは、夜中でした」
付き添っていた娘が、淡々と説明する。膝の上で組んだ手は、話す間もほとんど動かなかった。
「いつもなら、すぐ治療魔法が来る時間です」
だが、その夜は違った。循環優先順位が再設定されていた。効率化の結果、夜間対応は縮小されていたのだ。
「……助かっていますよね」
担当者が、確認するように言う。
「ええ」娘は小さく頷いた。「父は、生きています」
その言葉には、感謝も非難もなかった。ただの事実として、そこに置かれただけだった。
「でも」
彼女は一瞬だけ、視線を父の顔へ落として言葉を探した。
「……前より、弱りました」
それきり、責める言葉は続かなかった。
外に出ると、担当者が言った。
「見ての通りです。命は、救われました。制度は、正しく機能しています」
私は何も言わなかった。言えることが、なかった。制度は間違っていない。誰も規則を破っていないし、誰も悪意を持っていない。それでも――胃の底が、重く沈んだ。
帰路、車輪の軋む音の合間に、マリアンヌが低い声で言った。
「……選ばれなかったのですね」
「ええ」
私は肯定した。
「救われたが、救われきらなかった」
口にしてみて、その一言が一番残酷だと分かった。
夜、拠点に戻り、私は報告書を読んだ。結論欄には、こうある。
『現行制度に重大な問題なし』
ペンを持つ手が、一瞬だけ止まる。指先が、紙の冷たさをそのまま拾った。その文言を否定する根拠は、どこにもない。
だが――このまま続けば、いつか救われない命が出る。しかも誰も、それを“事故”とは呼ばない。「仕方なかった」と言い、「正しい判断だった」と言う。その言葉ひとつで、すべてが終わってしまう。
私は報告書を閉じた。
連合は、誰も裁かない。だが裁かないことで、選ばれない人間を生み始めている。王都と同じではない。同じではないが、似ている。もっと静かで、もっと否定しにくい形で。
救われない選択は、もう始まっていた。次に来るのは、誰かが声を上げるか、誰かが壊れるか――そのどちらかだ。私は、閉じた表紙の上に手を置いたまま、しばらく動かなかった。壊れる側を、黙って待つつもりはなかった。
誰も悪くない、規則も破られていない――なのに「救われきらなかった」。
この一言を書いた瞬間、私自身がいちばん胃の底を重くしていました。
声を荒げない残酷さって、書くのが本当にしんどいですね。
それでもアルテミシアは、黙って待つ側にはならないと決めた。
その背中を、今日は静かに見送っていただけたら。




