第3話 規則という名の壁
王立学院には、目に見えない境界線がある。
それは壁でも柵でもない。
生まれと立場、そして「守られているかどうか」で自然と引かれる線だ。
昼休み。
中庭に面した回廊は、談笑する生徒たちで賑わっていた。
私は、その光景を少し離れた場所から見ていた。
「……あ」
小さな声が耳に届く。
視線を向けると、エリナ=ミルフォードが、戸惑った様子で立ち尽くしていた。
彼女の足元は、貴族専用区域。
王立学院では、区域ごとに使用が分けられている。
それは差別ではなく、秩序だ。
(気づいていない……)
私は一瞬、躊躇した。
昨日、すでに注意はした。
だが、ここで見過ごせば――
周囲の視線が、すでにこちらを窺っているのを感じる。
私は歩み寄った。
「エリナ=ミルフォード」
彼女は、びくりと肩を震わせて振り返った。
「は、はい……?」
「ここは、貴族専用区域です。使用許可は出ていません」
声は低く、静かに。
感情を挟まないよう、細心の注意を払った。
エリナは、きょろきょろと周囲を見回し、顔を赤らめる。
「す、すみません……知らなくて……」
「知らなかったでは済みません」
言い切った瞬間、空気が変わった。
ざわり、と。
背中に、無数の視線が突き刺さる。
(……それでも)
「学院では、規則を守れない者が最初に排除されます。それは、あなたが平民だからではありません」
私は、一歩も引かなかった。
「特別扱いは、あなたを守りません。むしろ――」
「アルテミシア」
聞き慣れた声が、私の言葉を遮った。
レオナルト殿下だった。
「そのくらいでいいだろう」
彼は、穏やかな口調で言った。
まるで、私が言い過ぎたかのように。
「殿下……?」
胸の奥が、ひくりと揺れる。
「彼女はまだ慣れていない。最初から完璧を求めるのは酷だ」
そう言って、殿下はエリナに向き直った。
「大丈夫だよ。次から気をつければいい」
エリナは、ほっとしたように息を吐いた。
「は、はい……ありがとうございます……」
その瞬間だった。
――私が、悪者になった。
周囲の生徒たちが、露骨に私を見る目を変えたのが分かった。
「厳しすぎない……?」
「そこまで言わなくても……」
小さな囁きが、確かに私へ向けられている。
(違う……)
違う。
これは、彼女のためだ。
だが、その言葉は喉まで上がって、飲み込まれた。
ここで感情的になれば、
「やはり高慢だ」と言われるだけだ。
「……殿下」
私は、静かに頭を下げた。
「ご判断、承知しました」
それ以上、何も言わなかった。
言えなかったのではない。
言わないことを選んだ。
エリナは、私をちらりと見たあと、すぐに視線を逸らした。
怯えたような、困ったような、
そして――どこか、救われたような顔。
(壁を作ったのは、私?)
胸が熱くなる。
否。
私は、最初から壁のこちら側に立たされている。
授業開始の鐘が鳴り、生徒たちは散っていく。
私は、誰とも視線を合わせず、教室へ向かった。
背中に、はっきりとした孤立を感じながら。
正しさは、いつも孤独だ。
けれど――
それでも私は、引くわけにはいかなかった。
王太子の婚約者として。
この国の秩序を守る者として。
その覚悟が、
やがて私自身を追い詰める刃になることを、
この時の私は、まだ知らなかった。
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