第20話 助けを求める手
王城の夜は、静かすぎた。
昼間の混乱が嘘のように回廊から人影が消え、灯りだけが規則正しく壁沿いに並んでいる。エリナ=ミルフォードは寝台に横たわり、天井の一点をただ見つめていた。
医師の言葉が、何度も頭の中で反響する。
――次は、身体が持たない可能性が高い。
それでも、王都は止まらない。止まれない。聖女がいるから。聖女が、すべてを背負っているから。
シーツを握る指先が震えた。このまま壊れるまで使われるのだろう、と思う。悪意があるわけではない。誰も「壊せ」とは言っていない。ただ、止める人がいないだけだ。
――あの人なら。
アルテミシア=フォン=ルーヴェン。あの冷静な声。あの迷いのない判断。守られているのだと、ずっと勘違いしていた。実際には止められていたのだと、今になって分かる。
エリナはゆっくりと上半身を起こした。部屋の隅の小さな机、その引き出しを開けると、一枚の紙が出てきた。王立学院で使っていた、何の変哲もない便箋。だが、これだけは誰の管理下にもなかった。
ペンを取る手が震える。何を書けばいいのか分からない。
(……助けて)
その一言で十分だった。だが、それを王都に出してはいけない。
エリナは紙を折りたたみ、封をした。宛名は書かない。代わりに、小さな印をつけた。学院時代、アルテミシアがよく使っていた簡略記号――規則番号の略。それだけで、誰に向けたものか、分かる人には分かる。
深夜、エリナは信頼できる唯一の人物を呼んだ。
「……これを」
侍女は驚いた顔で紙を受け取る。
「聖女様、これは……」
「王都の外へ」
エリナははっきりと言った。掠れかけた声を、無理に押し出すように。
「王都の管理網を、通さずに」
侍女が息を呑む。それがどれほど危険なことか、その顔は理解していた。だが、彼女は頷いた。
「……承知しました」
扉が閉まる。エリナは力が抜けたように、再び寝台へ倒れ込んだ。初めて、自分で選んだ。守られる側ではなく、助けを求める側として。
一方、辺境。連合の仮設拠点では、夜遅くまで灯りが消えていなかった。私は循環網の数値を確認していた。安定している。予想以上に。王都がなくても地方は生きられる――その確信が、数字として目の前に並んでいた。
その時。
「アルテミシア様」
マリアンヌが静かに声をかけ、小さな封書を差し出す。
「至急の連絡です」
王都の正式な印章はない。だが、私は一目で分かった。
封を切る。中には短い文。たった一行。
『――助けて』
それだけ。けれど、紙の端に描かれた、あの簡略記号。規則番号。封の紙を指先でなぞったまま、しばらく手が止まった。喉の奥が、静かに、だが確実に熱を帯びていく。
(……ようやく)
私は目を閉じた。怒りはない。驚きもない。ただ、来るべきものが来た。
「マリアンヌ」
顔を上げる。
「連合会議を招集してください。聖女が、限界です」
それは救済の始まりであり、同時に――王都の支配が決定的に崩れる合図でもあった。
私は静かに言った。
「……もう、誰も壊させない」
悪役令嬢と呼ばれた女は、今度は助ける側として、世界の前に立つ。
エリナがたった一言「助けて」と書くまでに、どれだけの夜が必要だったか。
書いていて胸が詰まりました。
守られる側から助けを求める側へ、彼女も一歩を踏み出しましたね。
宛名のない封に印だけ残す、あのやり方が私は好きです。
ここまで見届けてくださって、ありがとう。




