第19話 聖女の限界
祈りの言葉を、エリナは途中で忘れた。
聖堂に集められた光と、王都中から引き寄せられた魔力が、一斉に彼女の中へ流れ込んでくる。多すぎる、と思ったときには、もう身体が悲鳴を上げていた。これまで受け止めてきた量とは桁が違う。指先の感覚が痺れ、奥歯が勝手に鳴った。
「聖女様、集中を」
司祭の声が、水の底で聞くように遠い。
「もう少しです。王都の安定のために」
また、その言葉だった。王都のため、皆のため、希望のため――呪文のように繰り返される理由が、いま流れ込む魔力と同じ重さで彼女にのしかかる。自分がどう息を吸っていたのか、それすら分からなくなった。
視界の端で、光が揺らいだ。
「……っ!」
膝が崩れ落ちる。その瞬間、聖堂に張り巡らされていた魔法陣が、一斉に歪んだ。
「なっ……!」
「制御値が、限界を超えています!」
慌てる声、椅子を蹴る音、司祭たちのざわめき。それらが渦を巻いて、エリナの視界を白く染めていく。暴走、という言葉だけが、やけにはっきりと頭の中に立ち上がった。
やだ。やめて。止めて。誰か――。
助けを求めた喉の奥から、代わりに蘇ったのは、ひとつの声だった。
『事前申告をしなかったのは、重大な規則違反です』
冷たく、けれど微塵も迷いのない声。
『あなたは、周囲を危険に晒しました』
違う、と反射的に思いかけて、否定できなかった。あの人は――アルテミシアは、こうなる前に、自分を止めようとしていたのだ。
光が弾けた。聖堂の柱に亀裂が走り、天井から細かな石の粉が降る。
「結界を!」
「聖女様から、距離を取れ!」
誰も、彼女に近づこうとしない。守っているつもりで、その実、誰ひとり手を伸ばさなかった。
助けて、と初めて心から思った。けれど、その言葉は喉の途中でつかえたまま外に出ない。聖女は弱音を吐いてはいけない。そう躾けられてきた身体が、悲鳴すら押し戻す。
次の瞬間、光がふつりと途切れた。すべての魔法陣が沈黙し、エリナはその場に倒れ伏す。聖堂に、重い静寂が落ちた。
「……聖女様?」
司祭が、恐る恐る近づいてくる。何度呼ばれても、返事はできなかった。やがて王城中に、緊急の鐘が鳴り響いた。
目を覚ましたとき、見慣れない天井があった。石を組んだだけの、やけに無機質な天井だった。
「……ここは……」
声が掠れる。舌が上顎に張りついていた。
「医務室です」
低く、落ち着いた声が返る。視線を横に流すと、王都の医師が立っていた。
「聖女様は、魔力過負荷による失神状態でした」
失神。その二文字を耳が拾った途端、背筋を冷たいものが伝った。エリナは無意識に問うていた。
「……また、できますか」
医師は少しだけ沈黙し、それから答えた。
「可能です」
その一言に、逆に身体の芯が重く沈む。
「ですが――」
医師は、目をそらさずに言い切った。
「次は、身体が持たない可能性が高い」
言葉が、細い刃のように身体の奥へ入ってきた。壊れる。私は、壊れる。それでも、乾いた唇はべつの問いを紡いでいた。
「……王都は……?」
震える声で尋ねると、医師の視線がわずかに揺れた。
「聖女様が止まれば、魔力供給は不安定になります」
そして、その目が床へ落ちる。
「代替は……ありません」
代替はない。つまり、私しかいない。エリナは静かに目を閉じた。まぶたの裏で、恐怖と後悔が渦を巻く。
あの人がここにいたら、と思う。アルテミシアなら、誰が何と言おうと、規則を盾に、結果を盾に、自分が壊れるより先に止めただろう。あの冷たい声で、容赦なく。
目尻から、熱いものが一筋こぼれ、こめかみを伝ってシーツに落ちた。誰にも見せたことのない涙だった。
その夜、王都の魔力観測値が大きく揺れた。そして時を同じくして、辺境連合の循環網が、初めて“王都不在”のまま安定稼働を記録した。皮肉なほど、はっきりとした対比だった。
エリナは、震える手でシーツを握りしめる。助けて――今度は、心の中でその名前をはっきりと呼んだ。
(アルテミシア様)
声にならないその呼びかけが、遠い辺境の彼女に届くかどうか。それを決めるのはもう、王都の都合でも、聖女の祈りでもない。アルテミシア自身が、届いた声にどう応えるかを選ぶだけだった。
今日はめずらしくエリナ視点。
ずっと冷たく響いていたあの声が、実は誰より彼女を止めようとしていた――と書きながら、私までシーツの端を握りそうになりました。
去った人が遠くでちゃんと効いている、この静かな対比を書きたかった回です。
ここまで見届けてくださるあなたに、そっと★を置いていってもらえたら嬉しいです。




