第17話 聖女の揺らぎ
静かな部屋だった。
王城の奥、聖教会の管理区画。白を基調とした壁と床が、祈りのために整えられた完璧な静寂を返してくる。ここでは足音ひとつが響きすぎて、かえって息が詰まった。
エリナ=ミルフォードは、両手を握りしめて立っていた。指の関節が白くなるほど、強く。
(……また、なの)
身体の奥が重い。魔力が流れすぎている、あの感覚が戻ってきていた。
「深呼吸を」
年配の司祭が、穏やかに言う。
「聖女様。力をお貸しください」
聖女様。その呼び方をされるたび、喉の奥が細く締まった。エリナは小さく頷き、ゆっくりと目を閉じる。
祈りの言葉を紡ぐ。教えられた通りに、一語も間違えないように。
光が溢れた。眩しいほどの純白が、部屋いっぱいに広がる。壁際に並んだ魔力計測器が、一斉に針を振り切らせた。
「成功だ」
「やはり、聖女様は素晴らしい」
周囲の大人たちが、安堵したように息を吐く。
だが、その安堵が部屋に満ちきる前に、エリナの膝から力が抜けた。
「……っ」
床に手をつく。冷たい石の感触が、手のひらに刺さる。視界がぐらりと傾いだ。
「聖女様!」
複数の足音が慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?」
「無理をなさらなくても……」
優しい言葉が、頭上から降ってくる。心配する声が、いくつも重なる。それなのに、誰の手も彼女を止めはしなかった。祈りそのものを、終わらせてはくれない。
立ち上がろうとすると、司祭がそっと肩に手を置いた。
「今日は、ここまでにしましょう」
その一言に、張りつめていた背中がわずかに緩む。ほっとしたのは一瞬で、すぐに別の冷たさが指先まで走った。今日が終わっても、明日がある。明後日も、その先も、同じ部屋で同じ祈りが待っている。
部屋を出ると、長い廊下が続いていた。王立学院の回廊よりもずっと静かで、ずっと閉じている。窓は高く、扉は重い。ここは守られる場所ではなく、閉じ込められる場所なのだと、歩くほどに分かってしまう。
ふと、あの名前が浮かんだ。アルテミシア様。
魔法実習場での、あの日のこと。
『事前申告をしなかったのは、重大な規則違反です』
あのとき投げつけられた声は、氷のように冷たく、言葉は容赦がなかった。頬を打たれたような気さえした。
けれど今なら分かる。あの人は、暴走しかけた自分を止めようとしていたのだ。冷たさの下にあったものの意味が、この静かな廊下で初めて腑に落ちた。
自室に戻ると、机の上に新しい資料が置かれていた。次の儀式。次の祈り。次の魔力供給。日付だけが淡々と並び、その列のどこにも「休む」という文字はない。
「……私は、聖女だから」
誰にともなく、そう口にする。皆が期待している。皆が喜んでいる。王太子殿下も、王都の人々も、この力を待っている。だから頑張らなければ――そう自分に言い聞かせるほど、呼吸が浅くなっていった。
夜。
エリナはベッドの上で、小さく身体を丸めた。魔力が、まだ肌の下でざわついている。毛布を握る指先が、かすかに震えた。
(……怖い)
声にはできない言葉だった。誰かに打ち明ければ、また守られる。けれど守られるほど、この場所から逃げられなくなる。優しさが、そのまま鎖になる。
目を閉じると、アルテミシアが断罪された日のことが浮かんだ。あの人は泣かなかった。誰にも縋らなかった。ただ、まっすぐ立っていた。
自分はどうだったろう。あの強さに気づきもせず、ただ寄りかかっていただけだった。守られることに慣れて、疑うことを忘れていた。
窓の外で、王都の灯りが静かに揺れている。その明かりの一つひとつを見つめながら、エリナは初めて考えた。この光は、誰の犠牲の上に保たれているのだろう、と。
答えは、もう分かってしまっている。だからこそ、目を逸らせない。
机の上の資料には、明日の儀式の刻限が記されていた。朝が来れば、また同じ部屋へ呼ばれる。同じ祈りを、同じ笑顔で捧げるのだろう。けれど今夜のエリナは、その資料をもう一度手に取り、日付の並びを長いあいだ見つめていた。
今日は視点をがらりと変えて、聖女エリナの側から。
ずっと守られてきた彼女が「優しさがそのまま鎖になる」と気づく夜を書きました。
悪役だと責めた人の背中が、いちばんまっすぐに見えてしまう――そんな皮肉を書くのが、しんどくて少し楽しかったです。
エリナのこと、今はまだ嫌いにならずにいてもらえたら。




