迷子だらけの森の中
ティリアは、静かに目を閉じて深く息を吐いた。
「私、忘れていました。とてもとても大切なことを」
お腹の底から何かあたたかなものが体中に染みわたっていくような不思議な感覚に、ティリアは驚いていた。
「マチアルド様。私は孤独に押しつぶされて、自分の存在意義を見失っていたのね。自分がこの世界に必要ないんじゃないかって、誰にも必要とされていないんじゃないかって。でも私、思い出したわ。私はこの大地を守るために存在しているの。他の誰にもできない、私だけにできる役割よ。それは私が精霊だからではないの。私はこの世界が好きなの。大切に思っているの。たくさんの生命を育むこの大地を守りたいの。そのために私ができることは、浄化なのよ。……ようやく、思い出したわ」
次第に、その声には力強さが加わっていく。
「ティリア様……」
「マチアルド様。ありがとうございます。もう私、迷ったりしません。きっと大丈夫。……戻りましょう、皆のもとへ。私にはやらなければならないことがあるんだもの。私にしかできないことが」
ティリアはくっと顎を上げると、迷いなく立ち上がりマチアルドの手を引く。引っ張られて立ち上がったマチアルドは、ティリアのその顔をみて安堵する。
明るく霧の晴れたような表情である。二人はにっこりとほほ笑み合うと、大きく頷いて歩き出した。
光の指す方へと。
◇◇◇◇◇◇
「ティリア様、大丈夫かなぁ。マチアルドも」
なかなか戻ってこない二人を待ちくたびれて、シュタルトは落ち着きなく辺りを歩き回る。残された男たちはなすすべなく、待つことしかできない。
「二人の境遇って少し似てるよな。マチアルドはたったひとりの王位継承者、ティリア様はたったひとりの大地の精霊でさ、二人とも替わりがいないんだよな。きっと、俺たちには分からない苦しさがあるんだろうと思う。俺には王位を継ぐ兄たちがいてくれたからな」
ラルフィルの言葉に、リガルドは記憶を辿るように答える。
「そうかもしれんな。特別な立場に生まれるというのは、孤独とも隣り合わせだからな。簡単に人と分かち合えるものでもないし。……ティリアに初めて会った時、背中がなんとも寂しそうでな。それで思わず声をかけたんだが。まぁまさか、精霊なんてものに出くわすなんて思ってもみなかったがな」
弟子を優しく諭すように、リガルドは続ける。
「でもな、誰でも人生には迷うもんだ。何者になるか、どこに進むか、どう生きるかとか。そんなもんがはじめから分かっている人間なんていやしない。精霊だって同じだろ。大事なのは見つかるまで迷って迷って、あきらめずに探すことだ。見つからない限り、どうせあがき続けるしかないんだ。好きなだけ迷ったらいい。俺だってこんな年になってもずっと迷いっぱなしだ」
シュタルトは、幼馴染みの小さな背中を思った。
子どもの頃からもう王女であることを受け入れて、いつだって人の目を意識していたのをシュタルトは知っている。時にわがままを言ってみたり甘えてみたりするが、それはどこかポーズのようで。幼馴染みである自分にさえ、本音を漏らすことはなかった気がするのだ。もしかしたらそれはマチアルド自身、無自覚だったのかもしれない。
「マチアルドも、迷ってるのかな……。俺も、この先何をするとか全然考えつかなくてさ。急にどう生きるのかなんて言われてもさ、急かされてるみたいで落ち着かなくてさ。でも俺は、楽しいのがいいんだ。楽かどうかは別にどっちでもいいんだけどさ、どんなに大変でも楽しいと思える生き方がしたいんだ。だって、せっかく生きてるんだしさ」
シュタルトらしい宣言に、ラルフィルは笑みをこぼす。
単純に聞こえるが、実は人生の極意を知るのはシュタルトのようなタイプだと思う。師匠であるリガルドもそうだ。自分らしい生き方をちゃんと見つめて、それを大事にして生きていくというのは、口で言うほどたやすくない。
ラルフィルには、自分がどんな生き方をしたいのかさえ分からないのだ。どう生きていきたいのか、どんな人生を夢に見るのか、兄たちの邪魔にならないことしか考えてこなかった自分には、何の答えもないのだ。
「俺はまだまだだ。お前らの方がよほどしっかりしてる。マチアルドやお前は、きっといい人生を送れるよ。俺はそう思う」
自嘲するようにシュタルトに向けたラルフィルの言葉に、リガルドは優しく言葉をかける。
「ラルフィル。お前さんは周りに遠慮して自分を殺してきただけだ。でももうその必要もなかろう。国は、兄たちに任せておけば大丈夫だろうからな。今度はお前さん自身のために、生きてみればいい。お前だっていい人生が送れるさ。自分を下手にごまかしたり、嘘ついたりしなけりゃな」
リガルドはいつでも煙に巻いた物言いばかりで、ラルフィルはよく苛立ったものだ。
でも今なら分かる。師匠はラルフィルの難しい立場も、国と兄たちを思うがゆえに遠慮がちだったことも分かっていたのだ。だからこそ、ラルフィルに剣で語らせようとしたのだ。剣を握っているときだけは、自分らしくのびのびと頭を真っ白にしていられたから。
「肝に銘じておきます。リガルド師匠」
久しぶりに聞く改まった呼び方に少しくすぐったそうに笑うと、リガルドはふと後ろを振り返る。
同時に、ラルフィルもその気配に気づいた。
「……いるな」
「ええ。しかもこれはかなり……。急ぎましょう、二人が危ない」
いまだ何も気づいていないシュタルトとマルセルが、顔を見合わせながら「え?なになに?」と事態が分からないままに立ち上がる。
二人の剣士の耳には、確かに聞こえていた。五感で感じ取れた、といったほうがいいかもしれない。
何か大きなものが、マチアルドとティリアのいる洞窟の奥深くからうごめきだそうとしているのを――。
「行くぞ!お前たちは少し離れて着いてこい」
リガルドの鋭い張り詰めた声に、シュタルトとマルセルはその手を取り合い、怯えた表情で震えあがるのだった。




