空飛ぶクラゲへいらっしゃい
「だからですね、そもそもここに人間が迷い込めるわけがないんですよ。私に聞かれても困ります。私にここと神殿をつなぐ力なんてありませんし、そもそもその光だって私のせいじゃ……」
こぽこぽこぽ……。
「とはいっても他に聞くあてもないんだから、一緒に考えてくれてもいいだろう。こっちはどうあっても、元の世界に帰らないといけないんだ。神殿に下ろしてくれるだけじゃだめなのか」
こぽこぽこぽ……。
「だってさ、ここは異世界じゃなくてデアルタの空の上なんでしょ。ならそのまま下ろしてくれれば帰れるんじゃないの。それとも実は別次元でつながってて、このまま戻っても実体化できないとか?」
こぽこぽこぽ……。
こぽこぽこぽ……。
「さっきっから、こぽこぽこぽこぽ、うるさ―いっ!」
がばり、と勢いよく体にかけられていた布をはねのけて起き上がるマチアルドの声が、部屋中に響き渡った。
マチアルドは、見慣れない部屋で目を覚ました。
どこか懐かしい、古い図書室のような匂い。落ち着いた雰囲気の居心地のよさそうな部屋である。部屋に置かれたケトルからは、湯気とともにこぽこぽという音が聞こえている。
ようやく回りだした頭で、状況を把握すべく頭を持ち上げ、ぐるりと見渡す。
「気が付かれたようですね。頭を少し打たれたようですが、もし痛むのなら冷たいタオルで冷やしましょうか」
――ウサギがしゃべっている。しかも陶器の人形が。頭はウサギで、首から下は人間みたい。もしかしてウサギのマスクでも着けているのかしら。
マチアルドはいまだぼんやりと霧がかった頭で考えながら、むんずとウサギの耳を掴む。
「……固い。取れない。なんで?紐もないし、継ぎ目もない」
見た通り表面は陶器のようにつるつるとしていて、ひんやりとした感触である。目には、グレーのきれいなガラス玉が入っている。
肌にはなぜかそこまでの硬質感はなく、かといって普通の肌感ではあきらかにない。一体このウサギはなぜ動いているのか。やわらかいふにふにの陶器人形など、存在するのか。
ウサギはなすすべなく、耳だけでなく全身を指先までぴんと伸ばして硬直したまま、マチアルドにさわさわと触られている。
見かねたラルフィルが、慌ててマチアルドの肩を掴んでウサギから引き離す。
「もうその辺にしておいた方がいい……。気を失ったマチアルドをこのウサギが介抱してくれたんだ。だからあんまり無体なことは」
ようやく覚醒したマチアルドは、ここが夢の中ではなく現実であることを思い知った。
目の前にいるのは人間も動物でもないウサギの人形で、なおかつ動いている。そして今いるこの部屋は、気を失う前に見た巨大クラゲの内部であるらしい。
「ええと、あなたは?」
「申し遅れました。私はマルセルと申します。以後お見知りおきください」
「マルセル……。私はマチアルド。マチアルド=デアルタ―ナと申しますわ。一応デアルタ国の王女です。それであの、助けていただいたそうで心より感謝いたします。寝ぼけていたとはいえ、失礼をお詫びしますわ。それでひとつ確認したいのですけれど、ここは一体何なのかしら。やっぱり、あのクラゲは夢じゃないのね?」
これが夢であったのならと心から思うマチアルドであったが、指先に感じるソファの感触も嗅ぎ慣れない部屋の様子も、そのどれもが実感を持ってこれが現実であることを教えてくれる。
何より、この床の感触。靴を履いていても、足の裏にぽよんぽよんとしたやわらかな感触が伝わってくるのだ。これはこのクラゲに足を踏み入れたあの時と同じ感触である。
もちろん、クラゲとは海にいるものと相場は決まっている。物語の世界でもあるまいし、空を飛ぶクラゲなど聞いたことがない。空を飛ぶのは鳥や虫であって、クラゲも飛ばなければ本だって飛ぶわけがないのだ。
その通り、と頷くマルセルに肩を落とすマチアルド。
「どうもここはシュタルトの言う通り、ちょっと不思議な世界みたいなんだよ。マチアルド」
ラルフィルは、マチアルドが気を失っていた間にこのウサギから聞いた話を教えてくれた。
自分たち人間には見えないだけで、実はこの世界には精霊や目に見えない存在――例えばこのクラゲのように、が存在しているらしい。
「ほら、俺のいった通りだったじゃないか。この世界には、魔法とか竜とか知らないものがいっぱい存在してるんだって!そのうち俺もきっと、魔法が使えるようになるんだよ!俺、どうせなら火魔法が使いたいんだよなぁ。ほら、かっこいいじゃん、火を自在に扱えるとかさ!」
シュタルトはもはやノリノリである。これから起こるであろう未知の冒険に目を輝かせて、不安のひとかけらも感じていないようである。
ラルフィルは年齢的なものもあってか、落ち着いては見えるがやはり動揺はしているようである。
「使えませんよ、魔法。そんなもの、存在しませんからね」
さらりとウサギが答える。その顔は一体この人たちは何を妄想しているんだと言わんばかりな表情であるのだが、それをこのウサギが言うのかと突っ込みを入れたい気持ちでいっぱいである。動く人形がそれを言ったところでどれほどの説得力があると言うのだ。
「なんでだよ!精霊もいて、クラゲも空を飛ぶんだよ?魔法くらい使えるんじゃないの?じゃあ、竜は?強い魔物とかもいないの?」
「いませんよ。そんなのが空を飛んでいたら怖いじゃないですか!おちおち空で寝てもいられませんよ!」
――だから、それをあなたが言うのかと!実際に、クラゲは空を飛んでるじゃないの!しかもとびきり巨大なのが。
もはや突っ込む気力を失うマチアルドの隣で、シュタルトはがっくりと床に膝をついてうなだれている。怖い魔物がいないのなら、鉄鍋と棒きれで戦わなくても済むのだから、喜ぶべきだと思うのだが。
「このクラゲは、これまでもずっと空を飛んでいたの?デアルタの上を?私たちには見えていないだけで」
「その通りです。精霊や思念体は、人間とは不干渉の存在ですので。あ、私も思念体ですよ。ティリア様に思念を吹き込んでいただいたおかげで、ただの人形からこうして意思を持って動けるようになりましたので」
三人はふと聞き慣れた名前に、ウサギをしげしげと見つめた。
「ティリア様って、もしかしてあのティリア様?え?だってティリア様って女神だろ。この世界の始祖とかなんとか。あの神殿に祀ってあるのが、ティリア様だよな?」
三人は顔を見合わせる。
どうもこの世界は、自分たちが知らなかっただけでファンタジーに満ち溢れていたようだ。




