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黒い犬

「こいよ犬っ!」


 武者震いする両足に渇を入れる。

 黒い犬に対して半身になり、膝を曲げて腰を少し落とす。

 両手でショートソードをゆったりと構える。


「グルゥゥウウ」


 俺が構えたことで警戒しているのか、攻撃してこない。

 ゆっくりと息を吐いて、吸う。

 いつ攻撃が来ても対応できるように集中を研ぎ澄ます。


 ジリジリと犬が俺を中心とした円の外周を描く。

 距離を一定に保ちつつ、こちらの隙を突こうとしている。


 常に犬と正面を合わせる。

 肌を刺すような緊張がどれぐらい続いただろうか。

 流れだした汗は服の色を濃くするほどに達した。


 カサッ。

 動き出す。


「―――なっ!」


 警戒を緩めていなかった。

 しかし目の前の犬だけを警戒していた。

 ゆえに背後から襲ってきた二匹目の攻撃を防げなかった。


 くそっ!


 回避できないと分かっているけど、それでもなんとかしようと体をズラす。


 鋭い爪が背中に四つの平行線を刻む。

 焼けるような痛みが脳を狂わす。

 しかし事前のズラしが功を奏し、押し倒されることだけは回避した。


 この状況はやばい。


「うわぁぁああ!!」


 恥も外聞も気にせずに叫び、全力で逃亡する。


「ワォ―――ン!!」


 最初の犬が雄たけびを上げる。

 犬の言葉なんて分からないけど、今回だけは理解できた。


『獲物を追え』




 森を掻き分けて逃げる。

 足を動かし、手で草木を払う。

 そうしながら【回復】を繰り返す。


「くそっ! 速いんだよ」


 すでに犬が三頭、右側を並走していた。

 その内の一頭が木々の隙間をぬって飛び掛ってくる。


「来ると分かっていればちょろいんだよっ!!」


 ショートソードを振る。

 タイミングはばっちりだ。

 剣先が犬の喉元から入り、背中に抜けていく。

 薙いだ勢いで犬の死体を振り払う。


 よし!


「―――って、なんだと!!」


 左側。

 殺した犬と少しタイミングを遅らせて、反対側で並走していた犬が襲ってきた。

 俺はアホだった。

 さっきの攻防で数を利用した不意打ちを得意とするのはわかっていたはずだ。

 だというのに目先の危険にだけ反応してしまった。


「がぁぁああ!!」


 愚かさの代償は重かった。

 飛び掛ってきた犬は左腕に噛み付いた。

 奇しくもそれはネズミによって負傷した箇所と同じ。

 【回復】でHPは満タンになったが、傷跡は残っていた。

 いま、再び傷は開く。前よりも酷く、決定的なほどに。


 ブチブチ、と筋肉が断裂していく。

 噛み付いた犬が首を左右に振って引きちぎろうとする。


「放せやくそ!」


 右手に持つショートソードで腹を刺す。


「グルゥゥウウ」


 刺されているのに一向に力を緩めない。

 犬は命を捨てる覚悟で噛み付いている。


 だったら。

 腹から背中に抜けた剣を思いっきり引き抜く。

 ズシャッ、と犬の内臓が落ちる。

 それでも目は死んでいない。

 獣の妄執が宿っている。

 そして―――。

 ブチッ、と左腕が取れた。


「―――え、うそ」


 ぼとり、と犬の死体が地面に落ちる。

 その口には俺の左肩から先の、腕が付いていた。


「あ、あ。ああ―――ぁぁああああああ!!!!」


 絶叫。

 痛みなんて感じられない。

 それよりも目の前の現実が信じられず、頭が乱れる。


 パニックに陥るが、そんなこと相手には関係なかった。


「え? は?」


 生きている犬が俺を取り囲んでいた。

 そしてボスと思われる正面の一頭が口を大きく開く。

 そこに火が灯る。


 本能が逃げろと警鐘を鳴らす。

 が、手遅れ。


 ボス犬の口にはサッカーボールほどの火球が出来上がっていた。

 放熱でチリチリと髪が燃える。


 あ、これ、だめだ。


 火球が発射される。

 最後の足掻きとして右腕で顔を覆う。

 しかし腕で防げるようなチャチな熱量ではなかった。


 悲鳴は出せなかった。

 なぜなら火が唇を溶かし、口内を蹂躙し、喉を焼いたからだ。

 火は止まらない。

 顔の肉を炙り、鼻を無くす。眼球の水分は一瞬で蒸発させて、そのままドロッと溶ける。

 髪は焼かれ、地肌が黒く変色する。


「―――がっ!! ひ、ひず!!」


 あついあついあついあついあつい。

 みずみずみずみずみずみずみず。


 俺は死んでいなかった。

 なぜ死ななかったのか。

 それは近づく犬たちの雰囲気を感じて納得した。


 食われるんだ。


 ここまでの重傷を負わせておきながら犬達は油断をしない。

 すでに仲間が二頭殺されているのだから当然だった。


 俺は死を待つだけとなった。


 死ぬ、のか...?


 左腕は食いちぎられ、右腕は焼かれた影響で動いているのかどうかも分からない。

 目が無くなり、視界を失った。喉は焼かれたけど、なんとか声は出そうだ。

 鼻の肉はなくなり嗅覚がまともに仕事をしない。

 満身創痍だった。


 これは、無理か?


 本能は死にたくないと叫ぶ。

 しかし理性は諦めた。


 せっかく転生したっていうのに、三日目で死ぬのか。


 情けなさに自嘲してしまう。


 魔法もあってチート能力もあったのになぁ。


 若い肉体も手に入れたのに。

 ...若い、肉体?

 ああ、そうだ。この肉体はアストの物だったんだ。


 だからリセルは泣いたのだ。

 俺が泣かせた。

 そしてこのままだとまたリセルを泣かせてしまう。

 それは嫌だ。


 ここで死んだらダメだ。

 俺自身の肉体なら諦めがつく。

 でも、この肉体はリセルの弟の物だ。


 ここでアストの体を犬畜生に食わせたらリセルが悲しむ!

 俺の『せい』で誰かが泣くのは矜持に反する!


 子供の頃、もっと金持ちの家に生まれたかったと母に泣きついたことがある。

 母は「ごめんね」と謝って仕事量を増やした。


「誰かが私の『せい』で泣いているのはね。とても悔しいの」


 心に深く刺さった母の言葉だ。


「自分の非力さをもっとも感じる瞬間よ。ああどうして私は...てね」

 

 俺は成人したとき、つい泣いてしまった。

 ここまで育ててくれた母への感謝の気持ちで泣いた。

 

「誰かが私の『おかげ』で泣いているのはね。とても嬉しいの」


 母が死ぬ一ヶ月前の言葉だ。


「自分の価値をもっとも感じる瞬間なの」


 誰かの『おかげ』で泣ける人間になろう。

 俺の『せい』で誰かを泣かせないようにしよう。


 たった二つの、母から受け継いだ大切な矜持。


 それは世界を渡ろうと破っていいものじゃない。


 全身に力を入れる。

 足が動く。

 胴体も動く。

 右腕は辛うじて動いてくれている。


 【探知】!


 犬は全部で八頭。

 一番近いのは八時の方向。

 距離は十メートル。


 俺は―――死ねないっ!!


「ぐらぇぇええ! 【火の魔法】」


 ゴォオオ、と火が舞う。

 火の理解は身をもって会得した。


「お返しだぁぁああ!!」


 一番近かった犬が俺の魔法で燃え上がる。

 火を消そうと犬はもがき、他の犬たちも慌てだす。


 今だっ!


 立ち上がる。

 犬たちが混乱して和を乱した隙に包囲を抜ける。


「ワンッ!」


 ポス犬が俺の逃亡にいち早く気付き、行動を始めた。


「もう一発。【火の魔法】」


 ボス犬が火を恐れて足を止めた。

 そのチャンスを逃さず、全速で走る。


 【探知】

 【探知】!

 【探知】!!

 【探知】っ!!


 背後の犬と、前方の草木や地面を【探知】で把握する。

 左腕がないために重心がぶれて何度も転びそうになる。

 右腕を振れないから思うようにスピードが出ない。


 そんなの知るかっ!


 弱音を唾棄して全力で逃げる。

 そして―――追い詰められた。


 深さ十メートルの谷が進路上に立ちふさがったのだ。

 【探知】の範囲は狭く、向こう側の陸地が分からない。

 最低でも十メートルは離れていることになる。

 ジャンプで飛び越えられる距離ではない。


「くそっ! 追いつきやがった」


 混乱から規律を取り戻した犬達が再び俺を囲む。

 背後は崖、前方は犬。

 状況は詰んでいた。


 だがそれでも!


「『ショートソード』」


 剣を構えて【探知】の魔法を連発する。

 MPの残量は気にしない。

 出し惜しみできる状況じゃない。


 犬が動く。

 三頭が同時に飛び掛る。

 どうやら火の魔法を使えるのはボスだけで、さらにもうMP切れのようだ。


 襲ってきたのは左側から二頭、右側から一頭。

 各個撃破だ。


 まずは一頭目!


 右側の犬に向かってこちらから飛び込む。

 体が軽い。振るった剣筋もブレない。

 血飛沫を上げて犬は絶命する。


 次は二頭同時だ!


 振り返る。【探知】で二頭の位置は把握している。

 二頭をまとめて一閃する線が『見える』。


 そこだぁぁああ。


 【切の技術支援】魔法によって導かれた剣が鮮やかに二つの命を刈り取る。


「はぁ...はぁ...どうだ!」


 笑いがこぼれる。

 三頭を相手にして勝った。

 残りは四頭。


 いける...いけるぞ!


 余裕が出てきた。

 まだボスがいるから完全に油断できないけど、殺すのは不可能じゃない。

 諦めなければ勝利をつかめる。

 と思った瞬間。


 全てが真っ黒に包まれた。


「え」


 MP切れ。

 【探知】の魔法を使いすぎた。

 周囲を把握する術がなくなった。


 視界は焼けてなくなり、魔法は使えない。


「...うそだろ」


 最悪のタイミングだ。

 体がふらつく。

 思考の混乱と暗闇の影響で平衡感覚が狂う。


 どこが地面で、どっちが前だ?

 残っているのは左に二頭? 右に二頭?

 左ってどこまでだ? 右は?

 俺は今、どこを向いている?


 くそ! 動くな俺!


 二頭を殺したところで止まっているはずだ。

 なら左側を向いているのか。

 ボス犬が正面だったから、右に...どれぐらい動けばいいんだ?


 ザッ、と犬の足音が聞こえる。


 やばいやばいやばい!


 思考がパニックを起こす。

 すると体幹もブレて、立っていることすらできなくなる。

 体が傾いていく。

 直そうと反対に必要以上の体重を傾けてしまう。


 ここまで来るともう手遅れだった。

 転んだ。

 よりにもよって、崖へと。


「ぅわぁぁああ!!」


 あると思った地面はなく、浮遊感が襲ってくる。

 無意味だと思いつつも体を丸めて落下の衝撃に耐える。


 そして―――。


 川に叩きつけられた。


 衝突の勢いで肺の中の空気が押し出される。

 ゴボゴボ、と空気の塊が口から逃げていく。

 水面に出ようと足掻くが、水流の激しさに上下の感覚が掴めない。

 川の流れは強く、ピンボールのように弄ばれる。

 何度も壁や底の石と激突し、意識が遠のく。

 消えていく意識の糸を死に物狂いで掴む。


 絶対に死んでやるもんかっ!


 .........。

 ......。

 ...。


「がはっ」


 飲み込んだ水を吐き出し、酸素を肺に流し込む。


「はぁはぁはぁ!」


 喉を詰まらせながら、何度も呼吸を繰り返す。


 谷に落ちて流された。

 何時間も流された。

 体は水を吸ってヨボヨボだ。

 その果てで岸に辿り着けた。


 焼けた右腕はしっかりと肩に繋がっていた。

 だが、左足は歪に曲がっている。

 目がないので確実なことはわからないけど、この痛みは骨が皮膚を破っているかもしれない。


 満足に歩くことも出来ず、右腕と右足を使って赤ちゃんのように這って川から離れる。


「死んで、たまるか...」


 死んだら絶対にリセルが泣く。

 絶対なら諦める訳にはいかない。


 回復の魔法を発動する。

 何度も使ったために効果が高まっている。

 小さな切傷や打撲は完治する。


 しかし無くなった左腕は再生せず、焼けた右腕はいまだにジクジクと痛む。

 左足は力を入れるたびにズキリと脳に痛みを訴える。 


 とりあえず...安全な場所に移動しなければ。


 今はもう日が暮れているはず。

 根拠は濡れた体を暖めてくれる陽光を感じないからだ。


 【回復】に使っていたMPを【探知】に回す。

 一瞬で周囲の状況を把握する。


「―――くそがっ」

「グルゥゥウウ」


 黒い犬―――ヘルバウンド。

 狙った獲物は地獄まで追う。


 まだ、逃げ切れていない。

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