王妃になるのは、わたくしですわ!
「……ですから、イヴァン様はあなたをご婚約者だと仰っているのです」
マリーナは、苛立ちを隠そうともせずに繰り返した。
アナスタシアは、ますます困惑した。
「イヴァンが?」
「ええ」
「わたくしを?」
「ええ、そうですわ」
「……そう」
アナスタシアは、ゆっくりと頷いた。
成程。漸く事情が判った。イヴァンが勝手に自分を婚約者だと吹聴しているらしい。それなら、話は簡単だ。
「では、イヴァンに確認いたしますわね」
「……は?」
「わたくしがいつ婚約を承諾したのか、本人に尋ねてみますわ」
「お待ちくださいませ!」
マリーナが慌てて声を上げた。
「イヴァン様に、そんなことをお尋ねになる必要はございませんわ!」
「どうしてですの?」
「それは……」
マリーナは言葉に詰まった。
イヴァンが何を話しているのか、自分でも正確には知らないからだ。彼は確かに、アナスタシアとの婚約について語っていた。
けれど、その婚約が正式に成立していると明言したことはなかった。マリーナは、自分にとって都合のよい部分だけを信じていたのである。
「……とにかく、わたくしはイヴァン様を信じておりますの!」
「それは結構ですわ」
アナスタシアは、穏やかに微笑んだ。
「ですが、わたくしはわたくしのことを信じておりますの。自分が誰と婚約したかくらい、存じておりますもの」
マリーナは、何も言い返せなかった。そのまま立ち去る彼女の背中を見送りながら、アナスタシアは小さく息を吐いた。
「……オレーシャ」
「はい、大公女殿下」
「わたくし、何か間違ったことを申し上げましたかしら?」
「いいえ。何一つ」
「そう。ならば、よろしいのですけれど」
アナスタシアは、少しだけ首を傾げた。
そして、翌日の昼休み。彼女はイヴァンを学院の談話室に呼び出した。イヴァンは、何事かと首を傾げながらやってきた。
「アナスタシア、僕に何か用か?」
「ええ。少々、お尋ねしたいことがございますの」
「何だ?」
「わたくし、あなたと婚約しているそうですわね?」
イヴァンは、一瞬だけ目を泳がせた。
だが、すぐに笑顔を取り戻す。
「そうだな。僕は君の婚約者候補の一人だ」
「ええ。それは存じておりますわ」
「ならば、何も問題はないだろう?」
「……イヴァン」
アナスタシアは、額に手を当てた。
「候補者であることと、婚約者であることは違いますでしょう?」
「だが、僕は王家唯一の男子だぞ」
「ええ」
「君と結婚することになれば、僕が王配になる」
「その可能性もなくはありませんわね」
「ならば、僕が君の婚約者だと言っても、間違いではないだろう?」
「……どうしてそうなりますの?」
アナスタシアは、本気で理解できなかった。イヴァンは、少しだけ不機嫌そうに眉を顰めた。
「君は、いずれ僕と結婚することになるかもしれないんだ。だったら、今からそう認識しておいても問題はないだろう?」
「問題しかございませんわ」
「何故だ?」
「わたくしが、あなたと婚約していないからですわ」
イヴァンは黙り込んだ。アナスタシアは、深々と息を吐いた。
「イヴァン。わたくし、あなたのことを従兄として大切に思っておりますわ」
「……ああ」
「ですから、お願いです。わたくしの名前を勝手に使うのはおやめくださいませ」
その言葉に、イヴァンは少しだけ顔を赤くした。
しかし、反省したわけではない。
「……解った。気をつけよう」
彼はそう答えた。
だが、心の中では別のことを考えていた。アナスタシアは、自分との婚約を否定した。
しかし、それは今の話に過ぎない。将来、彼女と結婚することになれば、全ては変わる。自分が王配になれば、王家の制度も変えられるかもしれない。そうすれば、男子が王位を継ぐことも可能になるのではないか。
そして、自分が国王になれば、マリーナを王妃に迎えることだって出来る。――完璧ではないか。イヴァンは、ひそかに満足した。
具体的に何をどうすれば制度を変えられるのか。誰に相談し、どのような手続きを踏み、誰を説得すればよいのか。そういったことは、一切考えていなかった。ただ、自分がそう望んでいるのだから、いずれそうなるはずだと思っていたのである。
その日の午後。マリーナは、学院の令嬢たちに向かって、王妃教育について語っていた。
「やはり、王妃となるからには、礼儀作法だけでなく、歴史や外交についても学ばなければなりませんわね」
「……マリーナ様は、王妃になられるのですか?」
ある侯爵令嬢が、静かに尋ねた。
「ええ。いずれは」
「そうですか」
侯爵令嬢は、それ以上何も言わなかった。
マリーナは、その沈黙を、自分への嫉妬だと受け取った。男爵令嬢である自分が王妃になることを、彼女たちは面白く思っていないのだろう。
だが、そんなことは関係ない。イヴァンが自分を愛している以上、いずれ自分が王妃になるのだから。
「それに、王妃となる者には、周囲を導く力も必要ですわ」
マリーナは、更に話を続けた。
「皆さんも、いずれわたくしを支えてくださるのでしょう?」
令嬢たちは、互いに顔を見合わせた。
誰も答えなかった。その様子を、少し離れた場所から見ていたオレーシャは、思わず額に手を当てた。
「……大公女殿下」
「何かしら、オレーシャ」
「オシペンコ男爵令嬢は、どこまで本気なのでしょう?」
「さあ。わたくしにも判りませんわ」
アナスタシアは、クリメントから受け取った手紙を読みながら答えた。そこには、次の休みに二人で散歩をしないかという誘いが書かれていた。アナスタシアは、思わず頬を緩めた。
「まあ。クリメントったら」
「……大公女殿下」
「何かしら?」
「今、マリーナ嬢のお話をしていたのですが」
「ええ、聞こえておりますわ」
「……そうですか」
オレーシャは、もう何も言わないことにした。
アナスタシアにとって、イヴァンとマリーナの騒動は、確かに面倒な問題だった。しかし、それ以上に大切なことがある。クリメントとの時間である。彼と一緒に過ごす時間は、何よりも楽しい。それを、イヴァンの妄想に振り回されて台無しにするつもりはなかった。
ところが、事態はアナスタシアの予想以上に悪化した。数日後、学院中に妙な噂が広がったのである。曰く、アナスタシアとイヴァンは、いずれ正式に婚約するらしい。曰く、マリーナはイヴァンに愛されているが、身分の問題で公表できないらしい。曰く、王家は男子相続への復帰を検討しているらしい。
どれも、事実ではなかった。だが、噂というものは、一度広がり始めると止めるのが難しい。オレーシャは、噂を聞きつけるたびに頭を抱えた。
「大公女殿下。これは、流石に放置できませんわ」
「……そうですわね」
アナスタシアは、漸く手紙から顔を上げた。彼女は、少しだけ考えた。そして、静かに頷く。
「卒業記念舞踏会で、全て明らかにいたしましょう」
「よろしいのですか?」
「ええ。わたくし、そろそろクリメントとの婚約を公表したいと思っておりましたもの」
オレーシャは、納得したように頷いた。
成程。アナスタシアにとって、今回の騒動を終わらせる最大の理由は、イヴァンを懲らしめることではない。
クリメントとの婚約を、堂々と公表することなのだ。
その頃、イヴァンはマリーナに告げていた。
「心配するな。いずれ、全てうまくいく」
「本当ですの?」
「ああ。僕を信じてくれ」
マリーナは、嬉しそうに微笑んだ。
「勿論ですわ、イヴァン様」
二人は、互いに手を取り合った。自分たちの望む未来が、すぐそこまで来ていると信じて。
そして、卒業記念舞踏会の日が訪れた。




