わたくし、いつ婚約いたしましたの?
「何故、彼女はわたくしをライバル視するのかしらねぇ。王太子妃になるのはあたしよって……。王太子殿下の寵愛を受けてるのはあたしなんだからですって」
王立ネヴゾロヴァ学院の中庭にある四阿で、アナスタシア・アルセーニエヴナ・チェルノヴァは、手元の紅茶を傾けながら首を傾げた。
18歳。チェルノヴァ大公女にして、現王家に王女がいないため、次期女王と目される少女である。
艶やかな黒髪に、涼やかな灰青色の瞳。生まれながらに高貴な身分を持つ彼女は、学院でも一目置かれる存在だった。尤も、本人は周囲の評価などさほど気にしていない。今日も今日とて、午後の授業が終わったあと、学友のオレーシャ・アガフォーノヴナ・クロチコヴァとお茶を楽しんでいたのである。
「大公女殿下、彼女を寵愛してらっしゃるの?」
「そんなわけございませんでしょう!」
アナスタシアは思わず声を上げた。
「というか、まだ立太子しておりませんから、現状この国に『王太子』はおりませんのに、彼女は誰のことを言っているやら」
「……まあ、そうですわね」
オレーシャは納得したように頷いた。納得はしたが、疑問は解消されていない。
そもそも、マリーナ・プローホロヴナ・オシペンコが口にする『王太子殿下』とは誰のことなのだろう。
この国の王族で、王子と呼ばれる人物なら一人いる。イヴァン・アルノーリドヴィチ・クレスチヤニノフ。現女王エレーナの唯一の子であり、アナスタシアの従兄にあたる青年だ。
しかし、イヴァンは王太子ではない。そして、アナスタシアは彼の婚約者ではない。ましてや、恋人でもない。
「そもそも、わたくしがイヴァンを寵愛する理由がございませんわ」
「従兄君ですものね」
「ええ。わたくしにとっては、少々考えなしで、少々自信過剰で、少々自分に都合のよい解釈をなさる、困った従兄ですわ」
「少々、でよろしいのですか?」
「……かなり、に訂正いたしましょうか」
オレーシャがくすりと笑った。アナスタシアも微笑む。
彼女たちの間では、イヴァンの評価はおおむね一致していた。
頭が悪いわけではない。寧ろ、成績だけなら決して悪くない。但し、自分にとって都合のよい結論を思いつくと、そこに至るまでの過程を省略してしまう悪癖があった。そして、その悪癖が今回も発揮されているらしい。
「ところで、オレーシャ。マリーナ嬢は、何故わたくしがイヴァンの婚約者だと思っていらっしゃるのかしら?」
「イヴァン殿下が、そのように仰っているからではございません?」
「……あの従兄」
アナスタシアの笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。それは怒りの表情ではなかった。寧ろ、面倒な問題の原因が判明したときの、諦めに似た表情である。
「今度お会いしたら、お話を伺わなければなりませんわね」
「お話だけで済みますかしら」
「勿論ですわ。わたくし、従兄を叩きのめす趣味はございませんもの」
「物理的に、とは申し上げておりませんけれど」
「……オレーシャ?」
「失礼いたしました」
オレーシャは、少しも失礼だと思っていない顔で頭を下げた。
そのときだった。
「アナスタシア」
聞き慣れた穏やかな声が、四阿に響いた。振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。
クリメント・アンドレーエヴィチ・シャホフ。シャホフ公爵家の令息であり、学院でも屈指の秀才として知られる人物だ。端正な顔立ちに、落ち着いた物腰。学業に優れ、剣術にも秀で、礼儀作法に至るまで申し分がない。眉目秀麗、頭脳明晰、温厚篤実、文武両道。四字熟語を並べ立てても足りないほどの完璧な貴公子である。
但し、アナスタシアに対してだけは、少々事情が異なる。
「お待たせしました。君の好きな焼き菓子があったので、持ってきたよ」
「まあ、クリメント。ありがとう存じますわ」
アナスタシアの表情が、ぱっと明るくなった。
クリメントが差し出した小箱には、彼女の好む蜂蜜入りの焼き菓子が収められている。アナスタシアは嬉しそうに一つ手に取り、クリメントにも勧めた。
「あなたも召し上がって?」
「勿論。君と一緒に食べたかったからね」
ごく自然なやり取りだった。自然すぎて、オレーシャは紅茶を飲みながら、そっと視線を逸らした。
この二人は、いつまでこの調子なのだろう。互いに好意を隠しているつもりらしいが、周囲から見れば隠す気がないのと同じである。クリメントはアナスタシアが好むものを知り尽くしているし、アナスタシアはクリメントの前では普段よりずっと表情が柔らかい。それなのに、正式な婚約発表だけはまだ行われていない。
理由は簡単だった。アナスタシアは次期女王であり、その配偶者は将来の王配となる。王配候補の選定には、王家や大公家、そして有力貴族の意向も関わる。二人の気持ちが定まっていても、発表の時期については慎重に検討する必要があったのだ。
尤も、本人たちの気持ちについては、最早検討する余地もない。
「……ところで、何かあったの?」
クリメントが、二人の会話の雰囲気を察して尋ねた。
オレーシャが説明するより早く、アナスタシアが答えた。
「マリーナ嬢が、わたくしを恋敵だと思っていらっしゃるそうですの」
「恋敵?」
「ええ。イヴァンの婚約者だと思い込んでいるようですわ」
クリメントの笑顔が、ぴたりと止まった。
「……イヴァン殿下の?」
「そうですわ」
「君が?」
「そうですわね」
「……どうして?」
「わたくしにも判りませんわ」
クリメントは暫く黙っていた。やがて、にこりと微笑む。
「成程。つまり、事実無根ということですね」
「ええ」
「それなら、僕がイヴァン殿下に確認してきましょうか」
「クリメント」
「はい」
「その笑顔は、あまり穏やかではございませんわ」
「そうですか?」
「そうですわ」
クリメントは、少しだけ残念そうに微笑んだ。
オレーシャは、心の中でそっと頷いた。この二人に関しては、婚約発表が遅れていることだけが問題なのである。少なくとも、アナスタシアがイヴァンを選ぶ可能性など、天地がひっくり返ってもないだろう。
その頃、学院の別棟では。
「マリーナ様、本当にイヴァン殿下とご婚約なさるのですか?」
同級生の令嬢が、恐る恐る尋ねていた。
マリーナ・プローホロヴナ・オシペンコは、男爵家の令嬢である。淡い金髪に、明るい茶色の瞳。愛らしい顔立ちで、華やかなものを好む少女だった。そして、自分が幸運な恋を手に入れたと信じて疑わない。
「ええ。勿論ですわ」
マリーナは自信満々に答えた。
「イヴァン様は、わたくしを愛してくださっておりますもの」
「ですが、アナスタシア大公女殿下が……」
「そのお話はもう結構ですわ」
マリーナの表情が険しくなる。
「確かに、アナスタシア様はイヴァン様の婚約者候補でいらっしゃるそうです。でも、イヴァン様が本当に愛していらっしゃるのは、わたくしなのですもの」
「……そうなのですか」
「ええ。イヴァン様は、いずれ正式にわたくしを迎えてくださると仰いましたわ」
それは事実だった。イヴァンは確かに、マリーナにそう告げていた。但し、その言葉が何を意味するのかについて、彼女は考えたことがなかった。イヴァンが王配候補であることも、アナスタシアが次期女王であることも、マリーナにとっては重要ではない。
彼女の頭の中では、イヴァンは将来の国王であり、自分はその王妃になる。それ以外の未来など、想像する必要もなかった。
「それに、わたくし、もう決めておりますの」
マリーナは胸を張った。
「アナスタシア様には、きちんと身を引いていただきますわ」
彼女は知らない。
自分が王妃になれると思い込んでいる国が、そもそも王妃を必要としない国だということを。そして、彼女が恋敵だと思い込んでいる少女が、イヴァンの妃になるつもりなど、最初から一度もなかったことを。
その日の放課後。
マリーナは、アナスタシアを見つけると、真っすぐに歩み寄った。
「大公女殿下。少し、お話がございますの」
アナスタシアは、隣にいたクリメントとオレーシャを見た。
「……どうやら、わたくしに用事があるようですわね」
「僕も同席しましょうか?」
クリメントが尋ねる。
「いいえ。大丈夫ですわ」
アナスタシアは微笑んだ。そして、マリーナへと向き直る。
「それで、どのようなお話でしょう?」
マリーナは、勝ち誇ったように微笑んだ。
「イヴァン様とのご婚約についてですわ」
アナスタシアは、瞬きをした。
「……どなたとどなたの?」
その問いに、マリーナは少しだけ眉を顰めた。
まさか、この期に及んで、とぼけるつもりなのだろうか。
「アナスタシア様。わたくし、イヴァン様をお慕いしておりますの」
「そうですの」
「ですから、どうか身を引いていただけませんこと?」
アナスタシアは、暫くマリーナを見つめた。
そして、心底不思議そうに首を傾げる。
「……わたくし、いつイヴァンと婚約いたしましたの?」
マリーナの笑顔が、僅かに引きつった。
どうやら、話が通じていないらしい。
しかし、彼女はまだ知らなかった。
自分がこれから、どれほど盛大な勘違いを重ねることになるのかを。




