王太子妃ではありません。ええ、妃、ではね
王立ネヴゾロヴァ学院の卒業記念舞踏会は、華やかな雰囲気に包まれていた。
学院の最上級生たちは、色とりどりの礼装に身を包み、来賓として招かれた王族や貴族たちに挨拶をしている。
その中でも、ひときわ注目を集めていたのが、アナスタシア・アルセーニエヴナ・チェルノヴァだった。深い青色のドレスをまとった彼女は、凛とした美しさを放っていた。その隣には、クリメント・アンドレーエヴィチ・シャホフが立っている。二人は自然に寄り添い、互いに穏やかな笑みを交わしていた。
「本日は、とてもお美しいですね」
クリメントが囁いた。
「まあ。いつもと同じですわ」
「いいえ。今日は特別です」
「……クリメント」
「はい」
「あなた、最近少しだけ、わたくしを甘やかしすぎではなくて?」
「そうでしょうか?」
「そうですわ」
クリメントは、嬉しそうに微笑んだ。
「では、これからも気をつけずに甘やかすことにいたします」
「もう……」
アナスタシアは、困ったように笑った。
少し離れた場所では、イヴァンとマリーナが並んで立っていた。マリーナは、華やかなドレスを身にまとい、周囲の視線を気にしている。彼女は今日こそ、自分がイヴァンの特別な存在であることを皆に認めさせるつもりだった。
「イヴァン様。あちらをご覧くださいませ」
マリーナは、アナスタシアとクリメントを見ながら囁いた。
「あの方は、まだご自分がイヴァン様の婚約者であるかのように振る舞っておりますわ」
「……ああ」
イヴァンは、面白くなさそうに答えた。
クリメントは、学院でも評判の貴公子である。成績も優秀で、家柄も申し分ない。王配候補としても、アナスタシアに最もふさわしい人物だと見なされていた。それが、イヴァンには気に入らなかった。
自分こそが王家唯一の男子である。自分こそが、アナスタシアの配偶者になるべきではないのか。そう考えるたびに、クリメントの存在が邪魔に思えてくる。
「……そうだな」
イヴァンは、ゆっくりと頷いた。
「そろそろ、はっきりさせるべきだろう」
彼は、マリーナをその場に残し、アナスタシアのもとへ歩いていった。
「アナスタシア」
呼びかけられたアナスタシアは、振り返った。
「イヴァン。どうなさいましたの?」
「少し、話がある」
「今ですの?」
「ああ。皆の前で、はっきりさせておきたいことがある」
その言葉に、周囲の人々が耳を傾け始めた。イヴァンは、それに気づいていた。 寧ろ、それを望んでいたのである。
「アナスタシア。そろそろ、僕たちのことを皆に認めてもいいのではないか?」
会場が静まり返った。
アナスタシアは、瞬きをした。
「……わたくしたちのこと、とは?」
「君と僕の婚約についてだ」
ざわり、と周囲が揺れた。クリメントの笑顔が消えた。アナスタシアは、暫くイヴァンを見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「イヴァン。あなた、いつわたくしの婚約者になったの?」
イヴァンの顔が、僅かに引きつった。
「……何?」
「ですから、いつ婚約が成立したのかとお尋ねしておりますの」
「僕は君の婚約者候補だろう?」
「ええ。候補の一人ではございますわね」
「ならば、何も問題はないはずだ」
「……イヴァン」
アナスタシアは、深々と息を吐いた。
「候補者であることと、婚約者であることは違いますでしょう?」
周囲から、くすくすと笑い声が漏れた。イヴァンの顔が赤くなる。
「だが、僕は王家唯一の男子だ。君と結婚することになれば、僕が王配となる」
「ええ。その可能性はございますわね」
「ならば、僕が君の婚約者だと言っても、おかしくはないだろう?」
「……どうしてそうなりますの?」
アナスタシアの声には、怒りよりも困惑が滲んでいた。その反応が、イヴァンには余計に耐え難かった。
「君は、いずれ僕と結婚することになるかもしれないんだ!」
「可能性のお話をなさっているのですか?」
「そうだ!」
「では、わたくしがクリメントと結婚する可能性もございますわね」
イヴァンは、言葉に詰まった。その瞬間、クリメントが静かに一歩前へ出た。
「アナスタシア。僕は、あなたとの婚約を望んでいます」
その声は穏やかだったが、はっきりと響いた。
「あなたが望んでくださるなら、いつでも正式に申し込みたいと思っております」
アナスタシアは、頬を染めた。
「……クリメント」
「はい」
「わたくしも、あなたとの婚約を望んでおりますわ」
周囲が、どよめいた。クリメントは、幸せそうに微笑んだ。イヴァンは、顔を引きつらせた。
「待て。そんな話は聞いていない!」
「あなたに報告する義務はございませんもの」
アナスタシアは、さらりと答えた。そのときだった。
「イヴァン」
静かな声が、会場に響いた。人々が一斉に振り返る。
そこには、現女王エレーナ・インノケンチェヴナ・クレスチヤニノヴァが立っていた。その隣には、アナスタシアの母であるエヴゲーニヤ・インノケンチェヴナ・チェルノヴァ大公もいる。
「あなたは、何を言っているのです?」
エレーナ女王は、息子を見つめた。
「母上……」
「アナスタシアがあなたの婚約者であると、そう言ったのですか?」
「……僕は、彼女の婚約者候補です」
「ええ。それは知っています」
女王は、静かに頷いた。
「ですが、候補者であることと、婚約が成立していることは別でしょう?」
イヴァンは、何も言えなかった。
「それに、あなたは王配という立場を何だと思っているのですか?」
「それは……」
「王配は女王の配偶者です。王位を継承する者ではありません」
女王の声は、どこまでも穏やかだった。
「あなたがアナスタシアと結婚したとしても、それだけで国王になれるわけではありません」
「ですが、僕は王家唯一の男子です!」
「それが、何か?」
エレーナ女王は、本気で理解できないという顔をした。
「わが国は女性のみの相続を定めております。あなたも、そのことは知っているでしょう?」
「……勿論です」
「ならば、何故そのような発言を?」
イヴァンは、追い詰められたように口を開いた。
「しかし、僕が王配となれば、将来的には男子相続に戻すことも――」
言いかけて、彼は口を噤んだ。会場が、しんと静まり返った。
エレーナ女王は、深々と息を吐いた。
「……イヴァン。あなたは、何を考えているのです?」
その声には、怒りよりも深い失望があった。エヴゲーニヤ大公が、静かに口を開く。
「カラリェーヴァ王国が、何故女系相続を定めたのか。あなたはご存じでしょう?」
「……はい」
「ならば、説明する必要はございませんね」
大公は、淡々と続けた。
「数百年前、当時の国王は大変な情豪で数多の女性に手を付け子を儲け、王家の財政は逼迫するほどでした。更に数十人もの王子や王女や庶子が王位継承権を主張する事態を招き、後継者争いは激化し、王の子であることを証明できない者まで王族を名乗った」
会場の人々は、静かに耳を傾けていた。
「その混乱を終わらせたのが、当時の王女です。彼女は王位を女性が継承する制度を定め、国名も女王国であることを示すものに改めました。女性であれば生涯に持てるこの数も限られますしね。全て嫡出、しかも偽物の入る余地はなくなる」
大公は、イヴァンを見つめた。
「以来、わが国は女系相続を続けております。王女がお生まれにならないからといって、制度が変わるわけではございません」
イヴァンは、唇を噛んだ。自分が何を言っているのか、漸く理解し始めたのだろう。しかし、彼はまだ諦めていなかった。
「……ですが、僕は王家唯一の男子です」
「ええ」
エレーナ女王は、頷いた。
「ですから、王配候補の一人ではあります」
イヴァンの顔に、僅かな希望が戻る。しかし、次の言葉で、その希望は打ち砕かれた。
「但し、あなたはアナスタシアと血縁が近いため、候補者としての優先順位は低いのです」
「……なっ」
「そして、アナスタシアが誰を配偶者に選ぶかは、本人の意思を尊重して決めることになります」
女王は、クリメントを見た。
「シャホフ公爵令息。あなたは、アナスタシアとの婚約を望んでいるのですね?」
「はい、陛下」
クリメントは、恭しく頭を下げた。
「私の望みは、アナスタシア殿下のお心に従うことです」
「そうですか」
女王は、満足そうに頷いた。
「それならば、よいでしょう」
アナスタシアは、クリメントの手をそっと握った。そして、周囲を見渡す。
「そういえば、わたくし、王太子妃を狙っているなどと言われておりましたわね」
その言葉に、マリーナがびくりと肩を震わせた。
アナスタシアは、穏やかな微笑みを浮かべた。
「王太子妃ではありません。ええ、妃、ではね」
一瞬、誰も意味を理解できなかった。
やがて、オレーシャが小さく息を吐いた。
「……大公女殿下。まさか、そこを強調なさいますの?」
「だって、間違っているのですもの」
アナスタシアは、涼しい顔で答えた。
「わたくしは、王太子妃になりたいわけではございませんわ。わたくし自身が、次の女王になるのですから」
会場のあちこちから、笑い声が漏れた。
マリーナは、真っ青になっていた。
「で、では……わたくしは……?」
震える声で、彼女はイヴァンを見た。
「イヴァン様は、わたくしを王妃にしてくださると……」
イヴァンは、顔を背けた。
「……僕は、そんなことを確約した覚えはない」
「嘘ですわ!」
マリーナが叫んだ。
「確かに、仰いました! いずれわたくしを迎えると!」
「それは、君が勝手に……」
「イヴァン様!」
二人の言い争いに、周囲の視線が集まった。アナスタシアは、静かに溜息をついた。
彼らは、互いに自分の望む未来を相手に押しつけていただけだったのだろう。イヴァンは、自分が王配になれば王家の制度を変えられると夢想していた。マリーナは、イヴァンが将来の国王になると信じ、自分が王妃になれると思い込んでいた。そして、二人とも、その未来が実現するために必要なことを何一つ考えていなかった。
アナスタシアは、クリメントの手を取った。
「母上。陛下。わたくしからも、申し上げたいことがございます」
エヴゲーニヤ大公が、優しく微笑む。
「何でしょう、アナスタシア」
「わたくしは、クリメント・アンドレーエヴィチ・シャホフとの婚約を望んでおります」
クリメントが、彼女を見つめた。
「わたくしは、彼を心から愛しております。そして、彼とともに、これからの人生を歩んでいきたいと願っております」
会場が、温かな拍手に包まれた。エレーナ女王は、満足そうに頷いた。
「よろしいでしょう。正式な手続きについては、後日改めて進めることにいたしましょう」
「ありがとうございます、陛下」
アナスタシアは、優雅に頭を下げた。クリメントは、彼女の手をそっと握り直した。
「……おめでとうございます、アナスタシア」
「ありがとう存じますわ、クリメント」
「これで、漸く正式にあなたの婚約者になれますね」
「ええ。わたくし、ずっとそうしたかったのですもの」
クリメントは、幸せそうに微笑んだ。
その隣で、オレーシャが小さく呟いた。
「……最初から、こうなると解っておりましたけれど」
アナスタシアは、聞こえなかったふりをした。
舞踏会の夜は、まだ続いていた。けれど、イヴァンとマリーナにとっては、既に終わったも同然だった。イヴァンは、王族としての立場を利用して虚言を重ねたことを、女王から厳しく注意されることになるだろう。マリーナは、身の丈に合わない振る舞いと、他人を見下す態度によって、学院内での信用を失うことになるだろう。
それは、誰かが仕組んだ罠ではない。二人が自分の欲望に従い、自分の言葉を信じ、自分の足で歩いてきた先にあった結果だった。
アナスタシアは、そんな二人を振り返ることもなく、クリメントとともに会場を歩いていった。彼女にとって、今夜最も大切なことは、既に叶っていたのだから。
王太子妃ではありません。ええ、妃、ではね。
わたくしが望んでいるのは、ただ一人。わたくし自身が選んだ、わたくしの王配なのですから。




