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第7話:老剣豪、飯と湯に屈す

第7話:老剣豪、飯と湯に屈す


 翌朝、七日目の夜明け前。静寂を切り裂くような低い唸り声と、地を蹴る重い足音で一馬は目を覚ました。


 「グルルルルァッ……!」


 小屋の外から響く獣の威嚇音。外へ出ようとしていた源助が、悲鳴を上げて尻餅をついた。


 「ひ、ヒィィッ! 大猪じゃあぁぁっ!」


 小屋の前の広場に立ち塞がっていたのは、人の腰ほどもある筋骨隆々の大猪だった。昨日の魚の焼き屑や味噌の匂いに引き寄せられたらしい。鋭い牙を剥き出しにし、充血した目でこちらを睨み据えている。


 「若殿、下がってくだされ! 十兵衛、棒を持て!」


 源助が叫び、十兵衛が作業用の太い角材を構える。一馬も手近な鉄鋤を握り直したが、この巨体が突進してくれば小屋ごと吹き飛ばされかねない。大猪が前足を掻き、突進の体勢に入った――その瞬間。


 サッ――。


 森の茂みから、一条の風のように影が滑り込んできた。ボロボロの羽織を纏った痩身の老武者。構えらしい構えもない。ただ自然体のまま大猪の突進軌道へと歩み寄り、腰の長刀の柄に手を添えた。


 パチン。


 静まり返った荒野に、澄んだ鯉口の鳴る音がひとつ。


 ――ヒュッ。


 白刃が朝露を切り裂く軌跡すら見えなかった。次の瞬間には、老武者はすでに刀を鞘へと滑り込ませていた。


 ズザザザザッ! ドサァァァンッ!!


 突進の勢いのまま前のめりに倒れ伏した大猪は、喉元を深く斬り抜かれて絶命していた。一瞬遅れて、首筋から血が流れ出した。刃こぼれ一つない、神速にして正確な一刀。


 「………………」


 刀を納めきった老武者が、ゆっくりとこちらを振り返った。無精髭に覆われた頬は削げ落ち、体は骨と皮ばかりに痩せこけている。だが、その双眸の奥には、触れれば魂ごと斬り裂かれそうな冷徹な光が宿っていた。老武者は無言で柄に手をかけたまま、一馬たちを値踏みするように睨み据える。張り詰める空気。源助と十兵衛が恐怖で息を呑み、一歩も動けない。だが、一馬は鉄鋤を下ろし、真っ先に口を開いた。


 「うわ、すごい。……あ、もしかしてお腹空いてる?」


 「…………は?」


 老武者の全身から立ち上っていた刺々しい殺気配が、一瞬で間抜けに霧散した。


 「ちょうど今、朝の汁物を作ろうとしてたんだ。昨日の魚の骨で取った出汁があるから、良かったら食べる?」


 「……某を、警戒せぬのか」


 老武者が低く掠れた声で言った。


 「見ず知らずの抜刀の徒じゃぞ。押し入り強盗かもしれんのだぞ」


 「強盗なら、猪を倒してくれないでしょ。それに……立っているのもやっとに見えるよ。ほら、座って」


 一馬は小屋から湯気の立つ木椀を持ってきて、縁側に置いた。白米はもうないが、ヒラタケとセリをたっぷり入れ、イワナの骨出汁と味噌で仕立てた熱々の汁物。そして、昨晩のうちに十兵衛が焼いておいてくれたイワナの塩焼きだ。老武者の喉が、ゴクリと大きく鳴った。何日もまともな飯を食っていなかったのだろう。彼は迷うように眉をひそめたが、やがてふらりと縁側に近づき、泥だらけの膝を折った。


 「……いただく」


 震える手で箸を取り、椀を持ち上げて汁をすする。


 ズズッ……。


 「………………」


 老武者は目を閉じ、ゆっくりと喉を通る温もりを噛み締めた。そして、ただ一言。


 「……美味い」


 大声を上げるでもなく、涙を流すでもない。だが、その絞り出すような一言には、生きることを諦めかけていた男の魂が宿っていた。イワナの身をほぐし、骨まで綺麗に食べ尽くす。椀を空にすると、老武者は静かに息を吐き、膝の上に手を置いた。


 「よし。お腹が温まったら、風呂に入ろうか」


 「……風呂?」


 「あっちの岩山の裾に、湯小屋があるんだ。泥と汗を流しておいでよ。手拭いはこれを使って」


 一馬に促されるまま、老武者はおずおずと湯小屋へ向かった。


 ――半刻後。


 湯小屋から出てきた老武者は、先ほどまでの死人のような気配が嘘のように、顔の強張りが取れ、歩く足取りがしっかりとしていた。冷たい風に吹かれながら、空を見上げてぽつりと呟く。


 「……刀を握らぬ一日というのも、悪くないものだな」


 「でしょ? 俺は橘一馬。橘の家を追い出されて、ここで開拓をしてるんだ。あんたは?」


 「……源蔵と申す。かつては剣客として名を馳せたこともあったが……主家の無意味な政争に巻き込まれ、多くの血を流しすぎてな。武の道に絶望し、この荒野で野垂れ死ぬ場所を探しておった」


 「そっか。死ななくて良かったよ」


 一馬が屈託なく笑うと、源蔵は怪訝そうに目を細めた。


 「若殿……なにゆえ、某のような素性も知れぬ老いぼれに、飯を与え、湯にまで入れたのだ? 某の剣の腕を目当てにしてのことか?」


 「え? だってお腹空いてたんでしょ? それに、あの猪を解体して肉にしてくれたら助かるし……あと、明日から薪割りと獣の見張りもお願いできると嬉しいな」


 「…………っ」


 源蔵が息を呑んだ。彼には、一馬が「身分や武名ではなく、目の前の飢えた一人の人間として自分を救い、生きる役割を与えてくれた」ように見えていた。いや、一馬にとっては本当に猪の肉と力仕事の人手が欲しかっただけなのだが。


 「明日も、朝飯あるからね。また一緒に食べよう」


 「明日……」


 源蔵はその言葉を反芻した。死に場所を探していた男にとって、「明日がある」という言葉がどれほどの救いになるか、一馬はまだ分かっていなかった。源蔵は、その言葉を口の中で転がすように呟いた。死に場所を探していた男にとって、それは久しく聞いていなかった言葉だった。明日がある。その当たり前の事実が、なぜか胸に痛かった。


 カタリ、と源蔵が愛刀を縁側に置いた。そして土間に膝をつき、深々と頭を下げた。


 「若殿」


 「ん?」


 「……明日より、某もこの地の開拓を手伝わせていただきたい」


 「ほんと? 助かるよ!」


 「されど……一つだけ、条件がございます」


 「条件?」


 源蔵は顔を上げ、真剣な眼差しで一馬を見据えた。


 「この地を……戦で荒らさせぬこと。この湯と飯の平穏を、何者にも奪わせぬと約束してくだされ」


 「……うん。当たり前だよ。俺も戦なんて大嫌いだし、絶対に邪魔されたくない」


 一馬が即座に頷くと、源蔵の双眸に熱い光が宿った。


 「ならば――この命、御身のために使いとうございます。我が太刀筋、すべてこの平穏を守るために捧げましょうぞ」


 「いや、御屋形様って柄じゃないんだけど……」


 苦笑いする一馬の横で、源助と十兵衛が「あの一刀流の達人・源蔵殿が味方に……!」と震え上がっていた。こうして、鳴神の地に最初の「守護神」が加わった。仕留めた大猪を源蔵が見事な手際で解体し、小屋の軒先には燻製用の大量の猪肉が吊るされた。当面のタンパク質は確保できた。だが、問題は次の段階だ。開墾地を広げ、本格的な水田を作るには、今の木鋤や使い古しの鍬では限界がある。


 (頑丈で、土離れが良くて、絶対に折れない鉄の農具が欲しいな……)


 一馬は帳面を開き、新たな仲間と次なる目標を力強く書き記した。


――――――――――――――――――――

【鳴神開拓記録:七日目】

・開拓人口:4人(新規住民:源蔵・加入)

・居住区:仮設小屋(排煙竈・炭砂ろ過井戸 稼働中)

・施設:鳴神温泉・第一号湯(湯小屋・稼働中)

・農地:試験区画 約0.25町(蕎麦・発芽確認)

・食料備蓄:猪肉(燻製加工中)、川魚、山菜

・防衛・戦力:源蔵(剣術の達人・薪割り・狩猟・防犯担当)

――――――――――――――――――――

【本日の反省:残飯の匂いは獣を呼ぶため埋設処理を徹底すること】

【現在の目標:頑丈な鉄製農具を手に入れ、開墾速度を劇的に向上させよ】

――――――――――――――――――――


 荒野の夜に、湯小屋からの白い湯気が静かに昇っていく。生活の基盤が整い、最強の守護神を得た鳴神の開拓は、次なる段階――「産業と鍛冶」の扉を叩こうとしていた。

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