第12話:道具を捨てた少女、自分で明日を選ぶ
第12話:道具を捨てた少女、自分で明日を選ぶ
それからの数日間、篝の傷は幸いにも最悪の峠を越えていた。
徹底的な初期洗浄と清潔な晒し布の交換、そして熱が引いた後の一馬による手厚い食事管理が功を奏したのだ。熱はようやく下がり、傷口の腫れも少しずつ引いている。だが、右足にはまだ強い痛みが残り、歩くにも杖が必要だった。体の傷が癒えるにつれて、篝の表情には困惑の色が濃くなっていった。
「――篝ちゃん、今日も無理して立っちゃ駄目だよ」
朝、湯気の立つ蕎麦粥を運んできた一馬に、寝床から抜け出そうとしていた篝が黒い瞳を丸くした。
「……何もしなくて、よいのですか」
「うん。太ももの肉が完全にくっつくまでは、安静にしてて」
「……それは、何かの罰ですか? 仕事をせぬ者は、餌を与えられず処分されるのが掟……。なぜ、何もしない私に粥を食わせるのですか」
「休むのも仕事のうちだよ」
一馬は木匙を手渡し、笑った。
「しっかり飯を食って、寝て、体を元通りにするのが今の篝ちゃんの仕事。現場でも、怪我人を無理に働かせるのは一番下手な監督のやることだからね。一度にいっぱい食べると胃がびっくりするから、少しずつね」
「休むのが……仕事……?」
篝は木匙を見つめ、言葉を失った。物心ついた時から「使い捨ての道具」として訓練され、痛みに耐え、役に立たなくなれば捨てられるのが当たり前だった少女にとって、「生きているだけで休むことを許される世界」は、理解を超えた天変地異だった。
縁側に座り、外を眺める日々の中で、篝は間者としての鋭い目で鳴神を観察していた。
(……おかしい)
ここには兵がいない。高い城壁も、堀も、見張り櫓すらない。武器といえば、鍛冶屋が農具の合間に打っている無骨な鉈くらいだ。それなのに――。暗渠によって水が引いた黒土の畑には、青々とした蕎麦の収穫跡が広がり、十兵衛が手際よく水路を掘り進めている。湯小屋からは白い温泉の湯気が立ち上り、作業を終えた男たちが笑いながら湯に浸かり、美味そうに飯を食っている。そして何より――この開拓地を率いる橘一馬という青年は、そのすべてを「当たり前」のように笑ってこなしている。
(この地は……何なの……?)
――だが、その平穏に冷たい刃が突きつけられたのは、保護されてから六日目の深夜だった。
サワッ……。
夜風に混じる、極めて微かな衣擦れの音。森の樹上に潜む、二つの冷徹な気配。寝床の中で、篝の瞳が一瞬で冷え切った忍びのものへと戻った。彼女を使い捨ての道具として放った元の主――その追手(処分役)が、鳴神の境界まで完全に嗅ぎつけてきたのだ。
(……私のせいだ)
篝は唇を強く噛み締めた。自分がこの地に生き延びていたから、追手がここまで来てしまった。任務に失敗した間者は殺す。そして、間者を匿った者たちも皆殺しにする――それが忍びの掟だ。このままでは、あのお人好しの一馬も、親切にしてくれた源助も十兵衛も、全員が夜闇の中で喉を掻き切られてしまう。
(去らなければ……今すぐに)
篝は音もなく立ち上がり、痛む足を引きずりながら、闇に紛れて小屋の戸口へと向かった。一歩。ズキッ。膝が崩れる。
――ガタ。
「……どこ行くの、こんな夜更けに」
暗闇の中から、ひょっこり声がした。土間の竈の前で、夜食の干し肉を炙っていた一馬が、眠そうな顔でこちらを見ていた。
「若殿……」
篝は目を伏せ、冷徹な声を作って告げた。
「去ります。……私は、ここにいてはならない人間です。追手が来ています。私がここにいれば……この地も、貴方たちも、すべて焼き払われる」
「じゃあ、一緒に追い払えばいいじゃん」
「……っ!? 何を、馬鹿なことを……!」
篝が感情を露わにして声を荒らげた。
「貴方は分かっていないのです! 相手は人を殺すことしか知らぬ本物の手練れ! ……それに、私が何者かも知らぬくせに!」
「知ってるよ」
一馬は白湯を一口すすり、あっけらかんと言った。
「間者でしょ?」
「………………ッ!?」
篝の息が完全に止まった。
「最初から知ってたよ。源蔵さんも言ってたし、あの服と武器を見れば誰だって分かるよ」
「な……なぜ……知っていて、私を生かしたのです……! 寝首を掻かれるかもしれないのに……!」
「目の前で行き倒れてる怪我人を放り出すわけないでしょ。それにさ……」
一馬は立ち上がり、篝の前に歩み寄ると、その小柄な肩にポンと手を置いた。
「誰かに命令されてここに来たのかもしれないけど……ここに残るか、どこかへ行くかは、篝ちゃん自身が決めていいんだよ。道具じゃなくて、人間なんだから」
「…………っ」
「俺はさ、美味い飯を食って、温泉に入って、みんなで笑って暮らしたいだけなんだ。……篝ちゃんがここにいたいって、自分で決めたなら、俺は歓迎するよ」
篝の胸の奥で、何かが音を立てて崩れ去った。生まれて初めて言われた、「自分で決めていい」という言葉。命令されるだけの道具だった自分に、生きる意志を与えてくれた手。
「……若殿」
「ん?」
「私は、ここにいてもよいのでしょうか」
一馬は少し考えた。
「うん」
「……なぜ」
「だって、篝ちゃんがここにいたいって思ったんでしょ?」
「…………」
「だったら、それで十分じゃない?」
篝はしばらく黙っていた。やがて、小さく頷く。
「……では」
その瞳に、初めて迷いのない光が宿った。
「私は、ここにいます」
「うん」
「この地で、生きます」
「うん」
「そして――私自身が、そうしたいからです。誰かに命じられたからではありません」
一馬は笑った。
「じゃあ、よろしくね」
篝の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。しかし、その涙を手拭いで乱暴に拭うと、彼女の瞳には今までにない力強い光が宿っていた。
「……少しだけ……外の風に当たって参ります」
篝は深く一礼し、闇の中へと駆け出した。
――数分後。
森の境界、鳴神を見下ろす尾根の暗闇。二人の黒装束の忍びが、抜刀しようとしたその瞬間――。
「……そこまでだ」
背後の木陰から現れたのは、抜き身の長刀を手にした老剣豪・源蔵だった。凄まじい威圧感に、追手の忍びたちが息を呑む。だが、源蔵が踏み込もうとした瞬間、木の上から静かな声が降り注いだ。
「源蔵殿。……ここは、私に」
「……ほう」
木々の間から音もなく降り立ったのは、黒装束を纏い直した篝だった。右太ももには清潔な晒し布が固く巻かれ、杖を突き、両手には研ぎ澄まされた苦無が握られている。
「篝……! 貴様、裏切ったな!」
追手が叫び、毒針を放つ。しかし篝は風のように身を翻し、一瞬で間合いを詰めた。源蔵が正面から敵を止め、篝は裏から敵の逃走経路を潰す。
――ザシュッ!
月光の下、閃光のような刃筋が閃く。追手の武器を弾き飛ばし、肩口を浅く斬って戦闘不能にする。殺しはしない。だが二度と刀を握れぬ無力化の一撃。
「グアァッ……!?」
「主へ伝えよ」
篝は冷徹な声で、倒れ伏す追手を見下ろした。
「篝は死んだ。……ここにいるのは、橘一馬様の『影』であると。私はもう、誰かの命令で人を殺さない」
圧倒的な気迫に恐怖した追手たちは、命からがら森の奥へと逃げ去っていった。一人が逃げ際に叫ぶ。
「……橘の若殿が生きていると、報告する!」
静寂が戻った森で、源蔵が満足そうに髭を撫でた。
「……見事な太刀筋。迷いが消えたな、娘」
「……はい。私は、自分の意志で……この地にいたい。だから、ここを守ります」
篝は静かに苦無を納め、夜明けの光が差し始めた開拓地を見つめた。
――そして、翌朝。
「あれ? 篝ちゃん、どこ行ってたの?」
小屋の前で、炊き立ての温かい蕎麦粥を用意していた一馬が、戻ってきた篝を見て首を傾げた。
「散歩? あんまり無理しちゃ駄目だよ。ほら、朝飯できたから食べよう!」
何も知らない一馬が、いつも通りの呑気な笑顔でお椀を差し出す。
「じゃあ、まずはちゃんと怪我を治そう。守ってくれる人が怪我してたら困るからね」
篝は一瞬だけ、誰にも見せたことのない柔らかな笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
「……はい。ただいま戻りました、若殿」
明日を与えられた老剣豪と、自分で明日を選んだ少女。鳴神の平穏を守る「表と裏の守護」が、ここに揃ったのだった。
一馬は帳面を開き、新たな記録を書き留めた。
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【鳴神開拓記録:六十八日目】
・開拓人口:6人(新規住民:篝・正式加入)
・居住区:仮設小屋(排煙竈・炭砂ろ過井戸 稼働中)
・施設:鳴神温泉・第一号湯(湯小屋・稼働中)
・農地:開墾済 約1町(新田の用水路工事が順調に進行中)
・食料備蓄:蕎麦粉、猪肉(燻製)、川魚(干物)
・防衛体制:【表の守護・源蔵】×【夜間警戒担当・篝(外周警戒を暫定運用)】
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【本日の反省:夜間の無断外出は危険。境界に鳴子などの警報装置を検討すること】
【現在の目標:新田に水を張り、最初の『米』を植え付ける準備を整えよ】
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