第11話:行き倒れていた忍びの少女
第11話:行き倒れていた忍びの少女
新田の水路掘りが始まった、翌朝のことだった。
「――若殿」
森の巡回から戻ってきた源蔵が、低く張り詰めた声で一馬を呼んだ。その背中には、泥と血で汚れた黒い装束の小柄な人影が担ぎ上げられていた。
「えっ……源蔵さん、その人は?」
「森の奥、湧き水のある岩陰で行き倒れておった。……これを見られよ。昨日見つけた焚き火跡の近くでござる」
源蔵が土間に敷いた筵の上に寝かせたのは、華奢な少女だった。年の頃は十六、七。黒髪を短く切り揃え、整った顔立ちをしているが、土気色に痩せこけ、浅い息を繰り返している。腰には仕込み苦無と針筒。装束のあちこちが切り裂かれ、露出した右太ももには、猛獣の牙で抉られたような深い裂傷が口を開けていた。傷口の周囲は赤黒く腫れ上がり、触れずとも猛烈な熱を発しているのが分かる。手のひらには、幼い頃から武器を握ってきた者特有の硬い胼胝があった。
「間者にござるな」
源蔵が冷徹に告げた。
「身のこなし、隠し武器の扱いからして、過酷な訓練を受けた忍びの徒。何者かの命を受け、鳴神を探りに来た折、獣に襲われて深手を負い、力尽きたと見えます。……若殿、いかがなさいますか。息の根を止めますか?」
「止めるわけないでしょ! 重傷じゃないか!」
一馬は即座に叫び、十兵衛と源助を呼んだ。
「源助さん、竈で湯を沸かして! 布を煮沸して、できるだけ清潔なものを用意して! 十兵衛さんは井戸水を汲んできて! 額を冷やすのに使う! 鉄心さんは水路の作業を続けてくれ。源助さんは篝の見張りをお願い」
「は、ははっ!」
源蔵が一瞬だけ目を見張ったが、すぐに一馬の指示に従い、少女を小屋の奥の清潔な寝床へと運び込んだ。
「……かなり腫れてる。熱もある。傷が深いし、感染を起こしている可能性が高いな。急いで泥と異物を洗い流さないと」
前世の現場監督時代、作業員の現場事故で応急手当の講習は嫌というほど受けていた。傷口に泥や草を直接塗り込むのは逆効果だ。感染症を防ぐ基本は、徹底的な洗浄と清潔の維持である。
一馬は沸騰させて冷ました湯を使い、清潔な晒し布で太ももの傷口から泥と固まった血を丹念に洗い流した。まず出血のある部分を清潔な布で圧迫して止血し、血が止まったのを確認してから、傷口をできるだけ清潔な布で覆った。少女が苦痛に眉をひそめ、小さく呻く。井戸水で絞った手拭いを高熱に浮かされる額に乗せ、寒気で震える体には薄い毛布を掛けた。
「……ふう。これで熱が下がってくれればいいんだけど」
一馬は台所へ向かい、挽きたての蕎麦粉と、イワナの骨出汁、そして塩を使った「温かい蕎麦粥」を小鍋でことことと煮込んだ。病人の体に負担をかけず、水分と塩分と熱量を補給するための食事だ。一度に食べすぎると胃が驚く。まずは少しずつだよ。
――数刻後。
夕暮れの光が小屋の障子を赤く染める頃、寝床の少女のまつ毛がピクリと震えた。
「…………っ」
少女の漆黒の瞳がカッと見開かれた。次の瞬間、彼女は痛みを無視して跳ね起き、隠し持っていたはずの苦無へ手を伸ばす――が、腰回りに武器はない。篝の視線が部屋を一周した。出入口。窓。梁。刃物の位置。一馬の利き手。源蔵の立ち位置。わずか数秒で、彼女はこの小屋の中にある「殺せる場所」と「逃げられる場所」をすべて把握していた。それでも彼女は、誰にも手を出さなかった。
「動いちゃ駄目だよ。傷口が開く」
「…………!?」
少女が身を引こうとしたが、右足に走った激痛に顔を歪め、その場に崩れ落ちた。
「ほら、無理するから。……痛むでしょ」
一馬は湯気の立つ木椀を手に、少女の枕元に腰を下ろした。
「お前……誰だ」
少女の声は掠れ、警戒で鋭く尖っていた。
「ここは……どこだ。なぜ……私は殺されていない」
「俺は橘一馬。ここは鳴神の開拓地だよ。あんたが森で倒れてたから、連れてきて手当てしたんだ」
「手当て……?」
少女は信じられないものを見るように、自分の太ももを見た。赤黒く腫れ上がり、激痛を放っていた傷口が、綺麗に泥を洗い落とされ、清潔な白い布で丁寧に巻かれている。焼けるようだった頭も、冷たい手拭いのおかげで驚くほど軽くなっていた。
「任務に……失敗した間者は……殺すのが道理……」
少女が唇を強く噛み締める。
「私は道具……情報を持ち帰れぬ道具など、処分されるのが掟……。なぜ……生かした……」
「道具って……人間でしょ」
一馬は呆れたように息を吐き、木匙ですくった温かい蕎麦粥を少女の口元へ差し出した。
「誰の命令で来たのかは知らないけどさ。目の前で死にそうな女の子がいたら、手当てして飯を食わせるのが当たり前だよ。……ほら、お腹空いてるでしょ」
「毒……」
「入ってないよ。ほら」
一馬が先にひと口食べて見せると、少女の喉がゴクリと鳴った。数日まともに食べられず、水も十分に飲めないまま逃げ続けていたのだ。
少女はおずおずと、差し出された粥を口に含んだ。
「…………っ!」
魚の深い出汁と、蕎麦の素朴な甘み、そして体の芯まで染み渡る優しい温かさ。冷え切っていた胃袋が、じわりと解きほぐされていく。
「……美味しい……」
ぽつりと、少女の口から本音が零れ落ちた。
「良かった。まだ鍋にあるから、ゆっくり食べてね」
少女は無言で、差し出される粥を一匙一匙、噛み締めるように飲み干した。椀が空になる頃には、その冷徹だった瞳から険しさが消え、代わりに見たこともない感情――困惑と、激しい動揺が渦巻いていた。
「……私の名は、篝」
少女が小さな声で名乗った。
「篝ちゃんね。俺は一馬。……今は何も考えずに、しっかり寝て体を治しなよ。元気になったら、うちの温泉で体を温めればいいよ。傷が治るまでは入っちゃ駄目だけどね」
一馬が毛布を掛け直して立ち上がると、篝は震える手で一馬の野良着の裾をギュッと掴んだ。
「……なぜ」
「ん?」
「なぜ……名前を聞いて……笑いかけるのですか。私は……貴方を害するために来たのかもしれないのに……」
「んー、元気になったら温泉にも入ってほしいしね。……それに、美味い飯を食った奴に、悪い奴はいないと思うんだよね」
一馬が屈託なく笑って頭に手を置くと、篝の瞳から大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。道具として生まれ、痛みに耐え、誰からも優しくされたことのなかった少女にとって、それは生まれて初めて触れた「人間の温もり」だった。
小屋の外では、源蔵が腕を組んで静かに佇んでいた。
「……若殿。敵の間者すら、その懐に抱き留められるか」
源蔵は感嘆の溜息を漏らし、静かに刀を収めた。
(……この御方、敵味方という概念そのものが違うのか)
いや、ただの応急手当と人道支援なのだが。
夜更け。篝がようやく深い眠りについた頃、一馬は小屋の外に出た。焚き火の向こうでは、源蔵が腕を組んで森を睨んでいる。
「源蔵さん、寝ないの?」
「若殿こそ」
「俺は明日の水路の図面を考えないと」
「……あの娘のことで、ござるか」
一馬は少し黙った。
「うん。傷が深いからね。熱が下がらなかったら危ない」
源蔵は小屋の方を振り返った。
「……あれは、恐ろしい娘ですぞ」
「そうなの?」
「目が覚めた瞬間、あの娘は部屋の中にある出口、武器、そして人の立ち位置をすべて見ておった」
一馬は目を丸くした。
「そんな一瞬で?」
「忍びとは、そういう生き物にござる。そして、あの娘は人を殺すために鍛えられておる」
「そっか」
一馬は焚き火に薪を一本くべた。
「じゃあ、なおさら治してあげないとね」
「……」
「だって、せっかく生きてるんだから」
源蔵は何も答えなかった。ただ、しばらくして小さく息を吐く。
「……若殿は、不思議な御方ですな」
「そう?」
「ええ。儂が若殿に拾われた時も、同じ顔をしておられた」
一馬は笑った。
「じゃあ、篝ちゃんも同じだね」
源蔵は目を細めた。その時だった。
――カサッ。
二人が同時に森を見る。風ではない。木の葉を踏んだ音だ。源蔵の手が、静かに刀の柄へ伸びる。
「……若殿」
「うん」
一馬も笑みを消した。森の奥。ほんの一瞬だけ、月明かりの中に黒い影が見えた。そして――消えた。
源蔵が低く呟く。
「……やはり、一人ではなかったか」
小屋の中では、篝が眠っている。鳴神の新しい住人はまだ知らない。自分を捨てた者たちが、すでにこの地のすぐ近くまで来ていることを。
一馬は帳面を開き、新たな「居候」の記録を書き留めた。
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【鳴神開拓記録:六十一日目】
・開拓人口:5人 + 療養中1人(篝)
・居住区:仮設小屋(排煙竈・炭砂ろ過井戸 稼働中)
・施設:鳴神温泉・第一号湯(湯小屋・稼働中)
・農地:開墾済 約1町(新田の水路掘削を着工)
・食料備蓄:蕎麦粉、猪肉(燻製)、川魚(干物)
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【本日の反省:傷を負った者を見つけたら、まず安全確保。次に止血・洗浄・保温。清潔な布を常備すること】
【現在の目標:篝の傷を完治させ、新田の用水路を完成させよ】
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夜の静寂の中、寝床で丸くなった篝は、生涯で初めて見る「温かい夢」の中にいた。しかし――彼女を使い捨ての道具として送り込んだ者たちの影が、確実にこの鳴神へと伸びていることを、一馬たちはまだ知る由もなかった。




