第10話:蕎麦が実った。だから、次は米を作ろう
第10話:蕎麦が実った。だから、次は米を作ろう
季節は巡り、秋風が荒野を吹き抜ける頃。暗渠排水で蘇った黒土の畑には、一面に咲き誇っていた白い蕎麦の花が散り、茎の先には黒褐色に実った三角形の蕎麦の実が、重たそうに頭を垂れていた。まだ緑色の実も混じっているが、全体の七~八割が十分に色づいている。
「……よし、実ったな」
一馬は畑の端にしゃがみ込み、一粒を指で摘んで殻を割った。中から現れたのは、しっとりとした淡い緑色の実。爪で押すと、しっかりとした硬さがある。
「若殿! 刈り取り用の鎌、全員分打ち上がったぜ!」
鍛冶小屋から鉄心が、黒光りする湾曲鎌をどっさりと抱えてやってきた。刃の角度、重さ、樫の柄の長さがすべて寸分違わず同じ――一馬が指示した「規格化」によって量産された最新の開墾鎌だ。刃が欠けても、予備の替え刃を木楔一本で現場ですぐに付け替えられる。
「ありがとう鉄心さん! よし、全員で刈り取ろう!」
五人総出の収穫作業が始まった。サクッ、サクッ、サクッ。小気味よい音が畑に響き渡る。鉄心の作った鎌は恐ろしいほど土離れと切れ味が良く、十兵衛も源助も笑いが止まらない様子でザクザクと蕎麦を刈り倒していく。源蔵もまた、無駄のない洗練された体捌きで、誰よりも速く束を作っていた。五人で毎日少しずつ開墾を続けた結果、試験区画だった0.25町は、いつしか1町にまで広がっていた。
刈り取った蕎麦を天日で干し、叩いて脱穀し、十兵衛が箕を使って風選し、軽い殻や藁屑を飛ばす。まだ殻が混じっている。もう一度選別しよう。その後、十兵衛が岩山の安山岩を削り出して作った石臼でゆっくりと挽く。石臼の隙間から、挽きたての蕎麦粉がサラサラと落ちるたび、力強く香ばしい穀物の香りが土間に満ちていった。十兵衛さん、臼の目をもう少し浅くしてみよう。今のままだと粉が熱を持つ。
その日の昼。改良竈の大鍋で湯を沸かし、挽きたての粉を椀に取り、熱湯を少しずつ注ぎながら木べらで力強く練り上げた――「蕎麦がき」が完成した。一気に入れちゃダメ。少しずつ。粉が水を吸う速度を見ながら練るんだ。
「さあ、できたよ! 少しだけ残ってた味噌と、山葵をつけて食べてみて!」
五人が湯気の立つ木椀を囲む。木べらですくった蕎麦がきを口に運ぶと――。
「「「…………っ!」」」
モチモチとした力強い弾力。噛み締めた瞬間に鼻腔を突き抜ける芳醇な野趣の香りと、熟成味噌の塩気。
「う、美味い……!」
「粉が細かく均一に挽けておるから、舌触りが驚くほど滑らかじゃ……!」
源助と十兵衛が涙ぐみ、鉄心は「こいつはたまらねえ! 酒が欲しくなる味だな!」と豪快に笑った。源蔵も無言のまま、噛み締めるように二つ目を口に運んでいた。
一馬は木椀を見つめながら、静かに息を吐いた。
(……これで、本当に生き延びられる目処が立った)
実家から持ってきた米は、とっくに一粒も残っていない。だが、この実耕作地から収穫できた蕎麦があれば、五人が冬を越すための主食の目処は十分に立った。鳴神は、初めて「外部の施しに頼らず、自分たちの手だけで主食の自給基盤を確立できる土地」になったのだ。一馬は収穫した蕎麦の山から、粒の大きな実だけを選り分けた。
「これは食べないで取っておこう」
「食べぬので?」
「うん。来年の種だよ」
一馬は良く実った株から取った種を、乾いた布袋に入れた。
「農業は、一年分を全部食べたら終わりなんだ。来年も作るために、必ず次の一年を残しておく。これが自給自足の一番大事なところだよ」
源助が感心したように頷く。
「なるほど……食べるための畑だけではなく、次の畑を作るための種も収穫する、と」
「そう。それに、米の種籾も残してある。これは食べちゃ駄目。来春、苗代に播く」
一馬は小さな袋を取り出した。
「……よし!」
一馬は椀を置き、全員を見渡した。
「蕎麦で腹を満たせるようになった。だからさ……次は、『米』を作ろう」
「米……でござるか!?」
十兵衛が目を丸くする。
「うん。もちろん、今から田植えをするわけじゃない。来春に向けて、今のうちに田んぼを作っておくんだ。蕎麦畑の隣の湿地をさらに排水して、今度は川から綺麗な水を引き込める『用水路』と『畦』を作るんだ。畑は水を抜くだけだったけど、田んぼは『水を引いて、溜めて、必要な時に抜く』必要がある。用水路と排水路を別にする。土木としては一段階難しくなるけど、これができれば白米が腹一杯食える」
白米と味噌汁。日本人にとっての究極のソウルフードを、この荒野で安定して収穫できるようにする。
「お任せくだされ! 水門の木材なら、いくらでも切り出して参りますぞ!」
「へっ、水路を掘るための幅広の鋤なら、明日の朝までに五本作ってやるぜ!」
十兵衛と鉄心が熱狂的に腕をまくり上げた。
――そんな歓声の中。
源蔵だけが、静かに腰の刀に手を添え、森の奥へと鋭い視線を向けていた。
「……源蔵さん?」
「いや……何でもござらん」
源蔵は穏やかに微笑んだが、その双眸の奥には歴戦の剣豪の冷徹な光が宿っていた。
――その日の夜。
月明かりが荒野を青白く照らす中、源蔵は一人、音もなく森の尾根を歩いていた。木々の枝を払い、岩陰のわずかな窪みに足を踏み入れる。
「…………」
源蔵の足元にあったのは――。木の葉で巧妙に隠された、ほんの小さな「焚き火の跡」だった。指先で灰に触れる。灰の底に、指先ほどの赤い熾が残っていた。そして、周囲の湿った土に残された、羽毛のように軽い足跡。土の沈み方から、体格はさほど大きくない。身のこなしの極めて軽い人間――。
その場所は、鳴神の開拓地、温泉、新田の予定地を「一望できる絶妙な距離と死角」に位置していた。
(……獣ではないな。野伏の類でもない。この位置。この火。あまりに都合が良すぎる)
源蔵は静かに刀の柄を撫でた。
(……誰だ? いずれにせよ、あの若殿が創る平穏を荒らさせるわけにはいかん)
源蔵の眼光が、暗闇を冷たく射抜く。
一方その頃、小屋の縁側では――。
「ふふ〜ん♪ 明日は水路の勾配を測るために、竹筒で水準器を作ろうっと! 透明な水が入った竹管で水盛りをすれば、高低差が分かる」
一馬が呑気に鼻歌を歌いながら、新田の設計図を帳面に描き殴っていた。田んぼはただ水を溜めればいいわけじゃない。取水口。用水路。田んぼ。排水路。水を入れる道と、水を逃がす道を別々に作る。大雨が降った時、水が逃げられない田んぼは、簡単に壊れるからね。水を引くことより、水を制御することの方が大事なんだ。
ただし、田んぼを作るだけでは米は育たない。一馬は帳面の端に小さく書いた。
【水利・苗代・種籾・畦・排水・害虫対策】
「……やること、多いな」
一馬は苦笑した。
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【鳴神開拓記録:六十日目】
・開拓人口:5人(健康状態:良好)
・居住区:仮設小屋(排煙竈・炭砂ろ過井戸 稼働中)
・施設:鳴神温泉・第一号湯(湯小屋・稼働中)
・産業基盤:鳴神鍛冶場(規格農具の量産体制確立)
・農地:開墾済 約1町(蕎麦・初収穫完了)
・食料備蓄:蕎麦粉・蕎麦種子、猪肉(燻製)、川魚(干物)
・農業基盤:来春の水田開設に向け、用水路・排水路の測量開始
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【本日の反省:蕎麦は収穫後の選別・殻取りまで徹底すること。石臼の回転速度が速すぎると粉が熱を持つ】
【現在の目標:用水路と排水路を整備し、来春の田植えに備えよ】
【農業方針:食べる分だけでなく、必ず翌年の種を残すこと】
【警戒情報:開拓地周辺に何者かの監視痕跡あり】
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自給自足の第一歩を踏み出した小さな開拓地。その温かな光に引き寄せられるように、暗闇の影が、すぐそこまで音もなく忍び寄っていた――。




