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第19話:安息角の番人(砂防堰堤)

 地熱と湧水の「熱地獄」をNATM工法でブチ抜き、ようやく山岳トンネルが貫通した。

 中隊二百五十名が東掩蓋連峰のさらに深部、目的地へと進軍を再開するが、僕の足取りは重い。空の色が、不気味な鈍色に染まり始めているからだ。


「……あー、もう。この湿り気、いよいよ本格的な雨季の到来ですね。不本意だ、あまりに不本意すぎる……」

 僕が泥濘に足を取られながらぼやいていると、案内人のカイトが立ち止まり、上流の険しい斜面を見つめる。


「監督、山、満腹。飲み込んだ雨、不要なもの吐き出す」

 カイトの直感的な警告は、僕が捉えている地山の悲鳴と完全に一致する。

 僕は右目にパチリと自作のモノクルを嵌め直し、上流の渓流沿いの斜面をスキャンする。


「……ひどいな。違法建築な土台の上に違法建築な構造物を建てたみたいだ」


 モノクルが映し出すのは、過去の豪雨で崩落した巨石や土砂が、絶妙なバランスで積み上がった「不安定な堆積土」の群れだ。

 土が自立できる限界の角度――安息角を越えたそれは、あと数ミリの降雨があれば、巨大なエネルギーを持った土石流となって牙を剥く。


 僕の脳内にある「現場監督」のスイッチが静かに切り替わる。


「いいですか。ここで土石流が起きれば、僕たちが血反吐を吐いて架けたトラス橋も、掘ったばかりのトンネルも、一瞬でゴミになりますよ。不本意ですが、工期いのちを守るために、山を躾けさせてもらいます!」


 ――――オーストリア式砂防堰堤。その起源は古く、16世紀まで遡る。

 欧州アルプスのチロル地方(現オーストリア・イタリア境)では、古くから砂防堰堤が建設されており、1537年にはポンテ・アルト砂防堰堤(当初は木製)の記録がある。さらに、1611年には同地に石積堰堤が建設され、現存しているのだ。

 1901年および1903年にオーストリアのワング(F. Wang)が砂防工学の専門書を著し、学術的な体系が確立された。これによりオーストリアの砂防技術は当時先行していたフランスを凌駕するに至り、日本では諸戸北郎が1915年から1921年にかけて著した『理水及砂防工学』などを通じ、オーストリアの先進的な砂防理論が日本へ紹介され、白山砂防や立山砂防などの近代砂防に大きな影響を与えた。

 オーストリア式砂防堰堤の特徴は階段式堰堤群――巨大な一つのダムを築くのではなく、低い堰堤(床固工)を谷間に幾重にも階段状に連続配置するのが最大の特徴だ。

 下流側の堰堤を上流側の「副堰堤」と見なし、下流側の堆砂の上に上流側の基礎を乗せるような形で連続させる。この連続的な堰堤によってエネルギーを段階的に減勢――土砂や水の落下の衝撃を一段ごとに殺しているのだ。また、堤の下流側勾配を2分(1:0.2)程度の急勾配に設定し、流下する礫による摩耗を防ぐ構造が伝統的だ。近年ではスリットを設け、通常の出水では水と細かな土砂を流し、土石流発生時のみ巨石や流木を捕捉する「透過型」も考案されている。

 階段状の段差によって、安息角を失い流体化した土砂のエネルギーを段階的に「減勢」させ、構造物の破壊を防ぐ他に、河床に土砂を堆積させて河床勾配を緩やかにし、川底が削られるのを防ぐことで、両岸の山脚を固定してさらなる山腹崩壊を防止している。高い堰堤を築くのに適した強固な岩盤が確認できない場合でも、低い堰堤を連続させることで対応が可能である一方、多数の堰堤を築く必要があるため、リソースを一時的に大量消費する。

 上下堰堤の間隔や重複高さの計算(例えば基礎高を下流天端より一定比率下げるなど)が重要であり、地形に応じた緻密な設計が求められる高度な仕組みだ――――


 そう、()が提案したのは、上流の谷間に巨大な階段状の壁を幾重にも築く、砂防堰堤の建設だ。


 力で土砂を堰き止めるのではなく、段階的にエネルギーを殺す防壁。だが、施工を開始しようとした僕の前に、王都から派遣された冷徹な事務屋が立ちはだかる。


「却下です。ドルト曹長。目的地の都市建設すら始まっていない段階で、なぜこのような『山肌の補強』に、貴重な石灰と中隊の全マナを投入する必要があるのですか?」

 眼鏡の奥で冷たい瞳を光らせるのは、王国会計局の監査官、エルナだ。

 彼女は手元の書類をパシパシと叩きながら、僕の設計図を「明白な予算の無駄遣い」と断じる。


「これは中隊の進軍に直接関係のない、過剰な安全設計です。あなたの『趣味のジオラマ作り』に付き合っている暇も予算もありません」

 その言葉を聞いた瞬間、僕の脳内にある「現場監督」のスイッチが『ぷっつーん』と音を立てて壊れる。


「……あーもう。一人称を『僕』に保つ余裕もなくなりましたよ」

 僕はエルナの前に一歩踏み出し、モノクルを指先で弾く。視界には、斜面崩落のシミュレーション結果が真っ赤な警告色で溢れている。


「いいですか。初期投資をケチって、完成したばかりのインフラ資産を全損させるのが、会計局の言う『正解』ですか? ()が言っているのは、ただの石積みじゃない。LCCライフサイクルコスト、つまり維持管理費も含めた『資産防衛』の話ですよ!」


「エル・シー・シー……?」


 不可解な専門用語に眉をひそめたエルナは、助けを求めるように、傍らで静観していたシギュン様へと鋭い視線を向けた。


「シギュン中尉! 貴女は中隊の指揮官として、この下士官の勝手な振る舞いを諫めないのですか? 彼は軍の貴重なリソースを、本来の目的ではない『山肌の補強』に投じようとしているのですよ。これは明らかな予算の浪費であり、軍規に照らせば越権行為です!」

 事務官の厳しい指弾を、シギュン様は銀色の鎧を微かに鳴らして悠然と受け流す。彼女はモノクルの奥で「現場監督」としての熱を帯びている()を一瞥し、面白そうに唇の端を吊り上げた。


「監査官殿、その懸念は当たらない。ドルトは今回の遠征における一切の工作作業において、一時的な任官として技術曹長の地位を付与されている。この現場における工事の指揮権は彼にあり、私は彼の『定義』に従って剣を振るう現場保安責任者に過ぎん。……現場の判断に、中隊指揮官たる私が異を唱える理由はどこにもないな」


「なっ……! 国家の予算を握る会計局を前に、そのような職務放棄を……!」


「いいですか、エルナさん。安全第一の意味、数字で示してあげますよ!」

 シギュン様の「お墨付き」を得た()は、愕然とするエルナを置き去りにしてモノクルを指先で弾く。


「ボルドーさん、バルカ! 堰堤の基礎打設の準備だ! エルナさん、文句は、()たちが土石流を『計算通り』に止めてから聞かせてもらいます!」


 泥にまみれた「現場監督」の咆哮が、雨の降り始めた峡谷に響き渡る。不本意だが、この事務屋さんに、土木とは何たるかを徹底的に叩き込んでやる必要があるらしい。


「いいですか、エルナさん。安息角を失って流体化した土砂は、もはや巨大な質量を持った『弾丸』と同じです。それをたった一枚の壁でねじ伏せようとすれば、どんな魔法障壁を張ったところで壁ごとへし折られますよ」

 ()は魔照機を回し、渓流の勾配に沿って数段の光のラインを描き出す。


 ()が設計したのは、巨大な一つのダムに頼るのではなく、低い堰堤を幾重にも階段状に並べる床固工とこがため――オーストリア式砂防堰堤だ。


「一段ごとに土砂のエネルギーを『減勢』させ、そこに土砂を堆積させて河床の勾配を意図的に緩やかにする……。力で抗うのではなく、山に『休む場所』を教えてやるのが、砂防工学の肝です」


「……理屈はわかりました。ですが、その基礎工事にこれほどの巨石が必要なのですか?」

 エルナが怪訝な顔で、バルカが担いできた数トンはあろうかという岩を指差す。


「バルカ、そこです! 堰堤の根元、落下の衝撃が最も集中する場所にその岩を叩き込め!」

「おうよ、監督! この『水叩き《みずたたき》』ってやつが、山のパンチを受け止めるクッションになるんだな!」

 バルカが豪快に巨石を設置し、ボルドーさんがその隙間を精密な石積みで埋めていく。


 ()はモノクル越しに、一段ごとの「落差」と「堆砂容量」を計算し、現場の歪みを修正していく。力学的に正しい「階段」が、泥濘の谷間に刻まれていく。不本意だが、一ミリの狂いもない完璧な配列だ。




 堰堤の最終段が竣工した直後、空を切り裂くような雷鳴と共に、本格的な豪雨が東掩蓋連峰を包み込んだ。

 作業を終え、高台へ避難した中隊の前に、カイトが険しい表情で現れる。

「……来る。山、溜めたもの吐き出す」

 次の瞬間、耳を劈くような地響きと共に、上流の斜面が文字通り「崩壊」した。


 巨石と流木を飲み込み、時速数十キロで迫り来る土砂の濁流――土石流だ。


「全員、退避ッ! ()の作った『階段』が仕事をするのを見ていろ!」

 濁流は、第一の堰堤に激突し、その勢いを大きく削がれる。溢れ出した土砂は第二、第三の堰堤で一段ごとにその破壊的なエネルギーを奪われ、巨石は「水叩き」によって勢いを殺されて堰堤の背後に静かに堆積していく。最下流の堰堤を越える頃には、あれほど凶悪だった土石流は牙を抜かれたただの「泥水」となり、()が設計した排水路へと穏やかに吸い込まれていった。


 谷のさらに下流、トラス橋とトンネルが、雨の中に何事もなかったかのように佇んでいる。



 雨が上がり、静寂が戻った渓谷。 堰堤の背後はすっかり土砂で埋まったが、それは山が安定した証拠でもある。 泥にまみれた()の前に、エルナが計算板を叩きながら、震える足取りで歩み寄ってきた。

「……計算が、合いました。もし、あの土石流を放置して橋とトンネルが全損していたら、その再建費用と物流停止による損失額は……今回の堰堤建設費の十倍を軽く超えていましたね」


「当然です。壊れてから直すのは二流。壊れる前に守り、資産の価値を維持し続ける……。これがLCCライフサイクルコスト、維持管理工学の基本ですよ」

 僕はモノクルを外して拭い、呆然としているエルナに不敵な笑みを向ける。


「……いいですか、エルナさん。土木ってのは『壊れないものを作る』んじゃなくて、『壊れた時の被害を最小にする』デザインも含めて工学なんです。安息角をナメてかかった帝国軍がどうなったか、聞いてませんか? 山の機嫌を損ねる前に、正しい『階段』を用意してやる。それが安全第一の鉄則です!」


「……っ。認めます、ドルト曹長。あなたの『階段』は、確かに数字以上の価値がありました」

 エルナの悔しそうな、だがどこか納得したような言葉を聞き流し、僕は大きくため息をつく。


「あーもう、泥だらけです。さあ、安全第一で次の現場へ向かいますよ!」

 未開の地の荒ぶる山を「躾け」、王国軍の物流を盤石なものにした現場監督のぼやきが、雨上がりの爽やかな風に乗って響いていった。

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