第15話:暴れ川の宥め方
東掩蓋連峰の巨大な岩壁、通称「蓋」の下での夜は、およそ安眠とは程遠いものだった。
切り立った岩壁に反響する不気味な風の音。そして何より、岩の隙間から絶え間なく滴り落ちる水の音が、太鼓のようにゲルの天幕を叩き続けている。
「……うう、昨夜の排水工事で少しは安眠できるかと思ったのに、シギュン様が『理に適っている』と褒めてくれた円形天幕も、この執拗な湿気までは防いでくれません……。寝不足は現場での判断ミスを招く。これこそ安全第一に反する死活問題です」
僕は湿った毛布にくるまりながら、何度も寝返りを打つ。二週間に及ぶ精密測量で神経をすり減らした身体は悲鳴を上げているのに、意識は冴え渡ったままだ。
ふと、地面に触れていた背中から、微かな振動が伝わってきた。それは規則正しい震動ではなく、巨大な何かが地力を削り取っていくような、不規則で暴力的な唸りだ。
(……この地響き。昨日の排水対策でキャンプの足元は固めましたが、もっと根本的な『血管』が暴れています。山から流れ出るあの川が、増水して川底の岩盤を叩き壊している音だ……)
僕の土中レーダーが、闇の中で現場の悲鳴をキャッチしてしまう。このままでは次の大雨が来た瞬間、拠点の土台ごと濁流に洗われ、全員が地中空洞にデッドドロップすることになるだろう。
「あーもう! 寝かせてくださいよ! 安全第一の前に、まずは僕の睡眠第一ですよ!」
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翌朝、川べりに立った僕は、モノクル越しにその奔流の正体を解析していた。
この川は、険しい岩壁を伝い落ちる無数の水筋が一点に集中し、急勾配を駆け下りてきたものだ。
ちょうど視線の先が険しい山岳地帯から平野部へと流れ出る境界に位置している。
急激な勾配の変化は、水のエネルギーを爆発的に高め、同時に大量の土砂を運んでくる。
ドドドドドドドドドドドド……。
岩壁を激しく叩きつける水の流れが重く響いているのをバックミュージックにして
僕の脳内にある「現場監督」のスイッチが、音もなく切り替わる。
(力で堰き止めるダムは、僕の少ない魔力量では造れない。ならば、川の勢いそのものと地形を利用するのが一番だ。)
――――紀元前256年頃、中国 四川省 成都市都江堰。
蜀の郡守であった李氷とその息子によって建設され、二千二百年以上も現役で動き続けている化け物じみた水利施設だ。
この都江堰の凄みは、巨大なダムで川を遮断するのではなく、三つの構造物が連動して「自動的」に水量をコントロールする点にある。
一つ目は魚嘴。川の真ん中に突き出た、その名の通り「魚の口」のような分水堤だ。この堤でもって激流を「内江(用水路)」と「外江(本流)」に分かつ。川の湾曲と流速の差を利用し、「乾季には水の60%を内江へ、雨季(洪水期)には水の60%を外江へ自動的に流す」という驚異的な流量調整を可能にしている。
二つ目は飛沙堰。内江と外江を隔てる低い土手だ。これは「余水吐き」として機能し、内江へ流れ込みすぎた水を外江へ逃がす。さらに、水流が巻く渦の力を利用して、重い土砂を外江へと弾き出す「自動排砂システム」としての役割も担っている。
三つ目が宝瓶口。内江の水を平野へ導く最終取水口だ。岩山をボトルの首のように切り開いたこの狭い水路が、最終的なフィルターとなり、どれほど上流が増水しても、平野部へ流れ込む水量を一定に制限し、洪水を防ぐのだ――――。
魚嘴を設置する場所は、どこでもいいわけではない。川の湾曲によって生じる遠心力を利用し、かつ、激流に耐えうる「根拠」が必要だ。
僕は自身の僅かなマナを地面に流し、土中レーダーを研ぎ澄ませると濁流が運んでくる砂礫の衝突音、そして川底が削られる振動が足裏に伝わってくる。
濁流の下、堆積した土砂のさらに深い場所。そこには、地中空洞に浸食されていない、周囲の岩盤と一体化した「強固な岩の背」が眠っている。そこが最も支持力が高く、魚嘴の芯を据えるのに相応しいと弾き出した。
「いいですか皆さん、集まってください! 川と喧嘩しても勝ち目はありません。僕たちは、この暴れ馬に『鞍』を置いて、乗りこなすんだ!」
「ガリク、魔照機を。座標(105, 420)の地点を照射してください!」
「了解です!」
測量図面と川面を照らし合わせながらガリクが指定された位置へレーザー光をポイントさせる。
「あの座標が、この土地の運命を分ける『口』になります。シギュン様、あの魚の背びれのような光のラインを残す形で岩盤を削ってください、出力は五パーセントでお願いします!」
「なるほど、川を裂いて、飼い慣らすというのだな」
シギュン様が、激流を前にしても揺らがない足取りで歩み寄ってくる。
「少しは抗わないと僕たちの工期が流されますからね。そして、工兵隊はシギュン様が削ったその断面を土質変換で焼き固めて、水の浸食から守る『芯』を造ってください!」
5名の工兵隊が並んでレーザーでポイントされた位置にそれぞれ両手をかざす。
ゴウッという音が響くと同時によろけてしまうほどの風圧が辺りに広がる。
シギュン様の風魔法が水を押し退け、川底の岩を鋭く削り出す。他の工兵と比べると惨めになるが、僕は自身の僅かなマナを注ぎ込み、削られた断面をガラス化させてコーティングを施していく。地中空洞への漏水を防いだ時と同じ防水処理だ。
次に、バルカたちに指示を出して、石を詰め込んだ巨大な蛇籠を、その「芯」の周囲に積み上げさせる。魚の口のような緩やかなカーブを描く堤防が、川の真ん中に出現した。
「分水、開始!」
その掛け声とともにシギュン様が風魔法を解くと、完成した魚嘴に激流が衝突した。本来なら破壊的なエネルギーとなるはずの奔流が、鋭い中州によって左右にスルスルと分かれていく。一方は激しく飛沫を上げて本流へと戻り、もう一方は僕たちが整えた穏やかな水路を通って、居住区の予定地へと静かに流れ込んだ。
「……ふぅ。安全確認、よし。これで水源の確保と、防水対策の第一段階は完了です」
泥と飛沫を払い、僕は大きくため息をつく。
「この魚嘴があれば、どれだけ人が増えても飲み水に困ることはありませんし、キャンプが流される心配もありません」
「貴公の引いた図面が、この荒野に確かな『形』として現れ始めたな」
シギュン様が、分かたれた水の流れを見つめながら、どこか遠い未来を予見するような声で囁く。
「この川が、いずれ運河となり、都市の血脈となる。貴公が最初に描いたあのデタラメな地図の修正は、まだ始まったばかりだろう? 最後まで、特等席で見届けさせてもらうぞ」
その期待は、恩賞というよりは「次の工程」を催促する現場責任者の眼差しに近かった。
「……っ。不本意です! 僕はただ、次の大雨で夜中に叩き起こされたくなかっただけなんです!」
僕の叫びは、二つに分かれて穏やかになった川のせせらぎに溶けていった。




