あれから
ーーあの夜から、一週間以上が経過した。「夏はまだまだこれからさ!」とばかりに蝉が鳴き、真っ青な空には固まった雲が浮かんでいる。
裏野ハイツの郵便ポストには、四つのネームプレートが貼られていた。
101号室『栗田』。男の部屋には心の病で寝たきりだった妻が居たが、ここ数日で病状が急に良くなり、夫婦で外に出られるようになったという。
103号室『浜西』。事の解決を告げると夫婦は顔を明るくし、それを見て男の子は少し微笑んだ。
201号室『森』。老婆は話を聞き終えると、静かに涙を流した。聞くと十九年前、泊まりに来ていた幼い孫が意識不明になり、二年後に亡くなっていたという。それ以来娘夫婦とは連絡を取らず、独りで暮らしていたのだと語った。ハナは老婆に寄り添い、背中をさすって落ち着かせていた。
三人は102号室の住人にも事の真相を話して聞かせてやろうとし、インターホンを何度か鳴らしたが、反応は無かった。
「どうします?」
「もう知らん」
三人は裏野ハイツの表側に回る。例の202号室の窓を見た。カーテンはかかっておらず、相変わらず無人だ。
「あれから音はしないんだろう?」
「はい。すっかり」
ハナの表情はその日の空のように晴れやかだった。憑き物が落ちたような顔、とはこの事。
「よかったな」アラカワは言った。「でも、仕事の代金はちゃんと支払ってくれよな?」そう言うと、請求書をヒラリ、と差し出した。
「トモダチ割引してあるからな」ハナは引きつった顔になる。「……少し時間かかっちゃうかもですけど、なんとか全額払いますから……」
「アラカワさん」チョーノとアラカワは向かい合う。「本当にありがとうございました」
「やめろよ。これ以上割引はしねぇぜ」
「……でも、玄関から回ってこなかったのは、怖かったんでしょう?」
あの日、アラカワは三階にあるチョーノの部屋まで配水パイプや野外に設置してある室外機を掴み、踏み台にしてよじ昇って来たのだった。
「バカヤロ、玄関先にはヤツがいると思うだろ。となると当然、窓だ」
「じゃあな」そう言って、アラカワは去ろうとする。「また何かあったら、よろしくお願いしますね」
「オバケはもうカンベンな」そう言い残し、片手をヒラヒラ振ってアラカワは坂道を下った。二人はそれを、並んで見送った。
「夜飯でも奢るよ」ハナが言った。「お前には世話んなった」
「いや、俺が奢る」チョーノはハナに申し訳なさを覚えている。ハナの恐怖心を、彼はちゃんと理解してやれていなかったのだ。どこかでおもしろがっている自分がいた。それでいて面倒な事になると、放っぽり出してしまいたくなる自分がいたのだ。
それがあの夜、自分が当事者となってようやく恐怖心を理解してやる事ができた。ナナシノゴンベエの棲む202号室、その隣に住むハナの感じていた恐怖は、並外れたものであった事だろう。
チョーノはこの一件が退屈しのぎになった事ではなく、今こうして無事に生きている事を心から喜んでいた。
「なんで?」
「なんでも」
二人は坂道を下り始めた。裏野ハイツを背にして、正面から夕陽の光を身に受けた。空には薄く月が見えて、一番星が輝いていた。