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第二話 一国を懸けた平手打ち

カレン・ホーエンハイムの胸中で、何かが重く沈んだ。


そうだ。この日だ。


聖ノーン学院の秋季舞踏会。


三つの学級が一堂に会し、表向きは杯を交わしながら、水面下では静かに駆け引きが渦巻いている。


そして今夜、最も重大で、最も屈辱に満ちた一幕が、まさに幕を開けようとしていた。


当のヒリアは、いまだ俯いて足首を揉みほぐしている。


その声には苛立ちばかりが滲み、迫りくる嵐にはまるで気づいていない。


「こんなことなら、ブーツで来ればよかったわ。礼儀だのなんだの、知ったことじゃない」


ヒリアは小さくこぼしながら、菫色の瞳を持ち上げ、カレンの顔をじっと見つめた。


「今日はなんだか、おかしいわよ。いつもこういう場が好きじゃないにしても、そこまでぼんやりしたりはしないでしょ」


カレンの胸中には、幾千もの思いが渦巻いていた。


目の前にいるのは、ヒリア・フォン・クレイン。


クレイン王国の王女であり、ゲーム後半では冷酷非情なラスボスの一角を担う存在だ。


けれど、今この瞬間の彼女は、ただ履き慣れない靴に苦しめられ、迫りくる裏切りに無防備な、ただの少女だった。


「殿下」


カレンは声を潜めた。その響きは、いつもよりずっと重かった。


「このあと、何があろうと、決して取り乱されてはなりません」


ヒリアはきょとんとした。


「なにを、変なことを言っているの?」


言い終えるより早く、広間の中央に流れていた音楽が、ふっと静かになった。


誰からともなく、視線が一方向へと向けられる。


アルヴィン王国の生徒たちが、ゆっくりと高台へ歩み寄っていくところだった。


先頭に立つ少年は、輝くような金髪に、柔和な物腰。


アルヴィン王国、第二王子——


レオナルド・アルヴィン。


彼は手にしたグラスを、カツン、カツン、と二度鳴らした。


澄んだ音が、静まり返った広間にやけに響き渡る。


「皆様、本日はご臨席いただき感謝いたします。聖ノーンの舞踏会の場をお借りして、ぜひとも皆様にご報告したい儀がございます」


レオナルドは会場を見渡し、その視線を最終的に、ヒリアの上で止めた。


「ヒリア王女は、模擬戦におきまして、幾度となく同窓に重傷を負わせてまいりました」


「さらに、聖剣の乙女セシリア・クレールに対しては、苛烈な嫌がらせを繰り返し、その心根は暴虐そのものです」


「かような品性の持ち主とは、アルヴィン王家と姻戚を結ぶに値いたしません」


「よってここに、正式に宣言いたします——ヒリア王女との婚約を、破棄いたします」


最後の一言が落ちると、周囲からは抑えきれないざわめきが湧き起こった。


レオナルドの声は、あまりにも軽やかに投げかけられていた。


だがその一言一言が、氷の刃となって、ヒリアの心臓に深々と突き刺さる。


幾十もの視線が、一斉に突き刺さった。


好奇の目、同情の目、そして隠しもしない蔑みの目。


ヒリアの肩が、ほんのわずかに、震えた。


それでも彼女は背筋を伸ばし続けていた。


決して折れることのない、一輪の黒い薔薇のように。


だが、菫色の瞳からは光が失せ、下唇は血が滲むほどに噛みしめられ、蒼白になっていた。


矜持が、彼女にうつむくことを許さない。


けれど、屈辱は潮のように押し寄せ、今にも彼女のすべてを呑み込もうとしていた。


カレンには、すべてが見えていた。


ゲームの中で見た光景と、目の前の現実が、二重写しになる。


この日から、ヒリアの瞳の奥の灯は、完全に消え失せた。


そして彼女は冷酷へ、偏執へ、そして完全なる闇へと、一歩ずつ足を踏み入れていったのだ。


今、この身体を動かしているのは、浅井凱斗だ。


彼は誰よりもよく知っている。


そんなものは、すべて、でっち上げの汚名だ。


模擬戦での損傷は当然起こりうるものだし、いわゆる“嫌がらせ”とやらも、ヒリアがセシリアに対して少々厳しく接していたにすぎない。


もしヒリアの、あの残酷なまでに厳しい鞭がなければ、あの気弱な少女が聖剣を握ることなど到底できなかったし、後の英雄へと成長することもありえなかった。


だが、そんなことは、説明するだけ無駄だ。


これは、ただの痴話喧嘩ではない。


国と国との間における、明確な侮辱なのだ。


一度でも弱みを見せれば、待っているのはさらなる踏みにじりだけだ。


カレンは深く息を吸い込んだ。


足首にわずかに力を込め、前へ出ようとする。


一歩を踏み出そうとした、まさにその刹那——


服の裾が、そっと、引かれた。


本当に、微かな力だった。


ほとんど感じ取れないほどに軽い。


だが、今にも千切れそうな震えが、その指先には籠もっていた。


誇りが、ヒリアにうつむくことを許さない。


けれど、その菫色の瞳は、すでに薄い水の膜を張っていた。


必死に、涙をこらえている。


彼女は、これ以上ないほどに傷ついているのに、それでもなお、気丈に振る舞っている。


それは、誇り高き王女が初めて見せた、自分でも認めたくないほどの、あまりにも脆い姿だった。


カレンは視線を落とし、そのかすかに震える手を見た。


その瞬間、二つの意志が、彼の胸中で激しくぶつかり合った。


ひとつは、浅井凱斗としてのプレイヤー視点。


この先、このシナリオがどれほどの血の海を生むのかを知っている。


目の前の少女が、これからどれだけの罵りを背負うことになるのかも。


もうひとつは、ホーエンハイム家の騎士としての本能。


忠誠、主君への献身、そして誰にも、自分の王女を侮辱させてはならないという矜持。


彼は浅井凱斗であると同時に、カレン・ホーエンハイムでもあった。


二つの立場、だが導き出される答えは、ただひとつ——


ヒリアの尊厳が、泥に塗れるのを、ただ黙って見ていることなど、できない。


「私がついています」


言葉を残し、カレンはヒリアの手をそっとほどいた。


振り返ることなく、一歩、また一歩と、まっすぐに高台へ向かって歩き出す。


黒い乗馬ブーツが、床を踏みしめるたび、重く低い音が響く。


一歩、また一歩。


その足音が、場のざわめきを、ひとつずつ押し潰していく。


誰もが息を呑んだ。


レオナルドの顔に張り付いていた余裕の仮面すら、ほんの一瞬、ひび割れた。


レオナルドが口を開き、叱責の言葉を発しようとした、その時だった。


カレンはすでに、レオナルドの眼前に立っていた。


肩を引き締め、背筋を張り、腰を鋭く回転させる。


右腕が、全身の体重を乗せて、無造作に振り抜かれた。


手のひらは張り詰め、力のすべてが指先へと注がれる。


そこには、抑えきれない怒りと、主を守る覚悟だけが込められていた。


「パァンッ————!!」


鋭い炸裂音が、広間の空気を裂いた。


レオナルドは、その一撃で顔を大きく背けられた。


金色の髪が乱れ、耳の奥で不快な高音が鳴り響く。


頬はみるみるうちに赤く腫れ上がり、口の端は裂けて、ひと筋の血がじわりと滲んだ。


レオナルドは、顔をそらした姿勢のまま、硬直していた。


自分が、衆人環視の中で、平手打ちを食らったのだという現実を、まだ理解できていない。


この光景を、誰ひとりとして予想できなかった。


ただの護衛騎士が、一国の王太子の頬を、衆目の中で張るなど——


前代未聞も、いいところだ。


「き、貴様……自分が何をしたか、わかっているのか!」


レオナルドは、カレンに向かって怒鳴り返した。


カレンは、その問いに答えず、同じ問いをそのまま返した。


「では、あなたは、つい先ほど、何をなさったか、おわかりですか」


レオナルドは言葉に詰まり、返答に窮した。


カレンはさらに一歩、踏み込んだ。


「聖ノーン学院は、三つの学国が共同で設立した学術の場です。あなたのアルヴィン王国が、二国間の婚約を一方的に裁く法廷ではありません。外交協議も経ず、王族同士の婚約の重みを無視し、三国の衆目の中で、他国の王女を好き勝手に貶め、クレイン王室の尊厳を踏みにじる——これはもはや、男女の痴情などではありません。これは、明白なる、クレイン王国への公然たる侮辱です!」


レオナルドの顔色が、一瞬で変わった。


何かを言い返そうとしたが、カレンの冷たい言葉が、それを許さない。


「婚約とは、二国間の同盟の証。あなたが気まぐれに投げ捨て、他国を貶めるための道具では決してない。根拠のない言いがかりで婚約を破棄するとは、つまるところ、両国の礼儀を無視し、大陸の平和の基盤を壊し、私欲を国交よりも優先させる行為に他なりません」


「アルヴィン王国の王太子として、その所業は王族の気品を失い、両国を外交断絶の瀬戸際に追いやり、数多の民を戦火の危機に晒すものです。品性を問い、国交の大義を問うたとき、あなたごときに、クレイン王女を批判する資格が、いったいどこにあるというのですか?」


カレンの言葉は、すべて外交の一線を正確に踏み抜き、一片の余地も残さなかった。


「あなたは、ヒリア王女の尊厳を、踏みにじった」


「あなたは、クレイン王国の体面を、汚した」


「あなたは、両国間に残された、わずかな和平の可能性すら、踏み潰した」


「あなたは、両国を戦火に導きかねない、愚かな真似をした」


「そして私は——」


カレンはゆっくりと手を持ち上げ、その手のひらを、レオナルドの肩に、そっと置いた。


力は込められていない。


だが、まるで重い山に押さえつけられたかのように、レオナルドは息ができなくなった。


「ただ、思い知らせただけです」


「自分の行動が、どんな結果を招くのかを、骨の髄まで思い知る、そのための、たかが一つまみの教訓をな」


レオナルドの身体が、大きく震えた。


振り払おうとしたが、肩に置かれた手は、まるで鋼の鉤のように、微動だにしない。


カレンはゆっくりと手を離し、一歩退いて、再び対峙する位置に戻った。


「怒りは、続けていただいて結構」


「国へ戻り、父君に泣きつかれても、結構」


「戦争を、起こされても、結構です」


カレンは一拍置き、広間を見渡した。


その声は静かだが、有無を言わせぬ力を秘めている。


「ですが、これだけは覚えておいていただきたい」


「この平手打ちの瞬間から。あなたが、ヒリア王女を貶めた、その瞬間から」


「クレインは、もう二度と、弱みを見せはしない」


「そして、あなた——レオナルド・アルヴィン」


「今日より先、未来永劫、忘れることはないでしょう」


「この平手打ちは、ただの報いにすぎない」


「あなたが、衆目の前で張り飛ばしたのは、クレイン王国という国の、尊厳そのものなのですから」


言葉が終わると同時に、広間は再び、死の静寂に包まれた。


その直後、抑えきれないざわめきが、まるで堰を切ったように、広間の隅々で噴き上がった。


「……あれ、正気かよ……?」


「これで、アルヴィンとクレインは……」


「マジかよ……カレンって剣術だけじゃなくて、話術もあそこまで達者なのか。末恐ろしい男だな」


レオナルドはその場に立ち尽くし、顔は青ざめ、唇は震え、一言も発することができなかった。


負けたのだ。


一方的な、この言葉の刃の応酬の中で——


レオナルド・アルヴィンは、カレン・ホーエンハイムに、完膚なきまでに打ちのめされたのだった。

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