第三話 未来からの教訓
レオナルドは、廃墟の上に立っていた。
ここはかつて、クレインの王城だった場所だ。
今では戦火に喰い荒らされた瓦礫と、焼け焦げた石壁だけが、音もなく立ち並んでいる。
それはまるで、名もなき墓標の群れのようだった。
レオナルドは、もう学院時代の少年ではない。
かつて意気揚々としていた金髪の王子の目元には、今や戦場で刻まれた苦みが滲んでいる。
鎧には勲章よりも多くの傷跡が刻まれ、肩甲の窪みには、洗っても落ちない血の垢がこびりついていた。
彼は生き延びた。
その代償は、家族の命、仲間の屍。そして、守るべきだった民たちが、この愚かな戦争の中で、次々と死んでいったことだ。
戦争は終わった。
レオナルドは、この大陸で唯一の皇帝となった。
だが、彼の胸に残ったのは、虚無だけだった。
どれほど美しい勝利宣言を並べても、どれほど正当な開戦理由を掲げても、最後にそのツケを払わされるのは、いつだって歴史書に名を残すことのない者たちなのだ。
「レオナルド?」
彼は振り返った。
「セシリア……」
セシリアは少し離れた場所に立っていた。逆光で、その表情はよく見えない。
レオナルドは彼女の顔を見つめながら、前触れもなく、涙を零した。
自分でも、理由がわからなかった。
戦争は終わった。
皇帝にだってなった。
セシリアは、こうして生きている。
なのに、涙は止まらなかった。
まるで、自分の身体の中の何かが、彼自身よりも先に、取り返しのつかない喪失を感じ取っているかのように。
セシリアは早足で歩み寄った。
彼女は、彼の涙を拭うための綺麗な布を探そうとした。
しかし戦場に、綺麗な布などあるはずがない。
彼女の服も、袖口も、外套も、全てが血の汚れに塗れていた。
その血は、敵のものか、仲間のものか、幾重にも重なり、こびりついて、黒ずんだ染みになっている。
どこにも、綺麗な場所などなかった。
彼女は板金の手甲を外し、その手の甲を差し出した。
それがおそらく、彼女の全身で、唯一まだ綺麗な部分だった。
セシリアは、その手の甲で、レオナルドの頬を、そっと拭った。
その瞬間、レオナルドは、ようやく理解した。
自分が、何を泣いているのかを。
——かつてのセシリアは、もういない。
学院時代のセシリアは、道端に咲く花を見つけては、子供みたいに笑っていた。
指先にほんの少し血がついただけで、顔色を失って倒れてしまうような少女だった。
あの少女は、もういない。
今のセシリアは、笑わない。
全身が血の汚れに塗れていても、その表情は微動だにしない。
強くなったわけじゃない。まひしたわけでもない。
戦争が、「セシリア」という言葉に宿っていたすべてを、彼女の身の上から、一枚、また一枚と、剥ぎ取っていったのだ。
戦争が、セシリアを変えた。
そして、レオナルドも変えた。
「もしも……」
レオナルドの声は、自分でもわからないほど掠れていた。
「もしもあの日、俺が衆目の前で婚約破棄などしなければ。結末は、違っていたのだろうか」
セシリアは答えなかった。
彼女は誰よりもよく知っていたからだ。
もしあの日、レオナルドがあの舞踏会で、あのような言葉を口にしなければ。
クレインは開戦の大義名分を失っていた。
歴史の流れは、間違いなく変わっていた。
「あの日、俺は衝動的すぎたんだ」
レオナルドの声は震えていた。
「ただ、政略結婚の道具にされるのが嫌だった……それだけで、あんなことを言ってしまった」
「でも、もう……もう、起きてしまった。戦争も、始まってしまった」
彼はうつむき、自問するようにつぶやいた。
「あの日、誰かが俺を、ひっぱたいてくれていたらよかったのに。せめて、思い知ることができたはずだ」
「未来の人民に、血を流させないための、教訓をな」
***
舞踏会の広間は、死の静寂に包まれていた。
いや、正確には——
カレンの平手打ちが炸裂したその瞬間から、誰もが息を潜め、次の一手を窺っている。
レオナルド・アルヴィンは、まだその場に立ち尽くしていた。
頬は赤く腫れ上がり、口の端から滲んだ血もそのままだ。
周りを囲むアルヴィン王国の生徒たちも、呆然としている。
自国の王太子が、衆人環視の中で、たかが近衛騎士ごときに張り倒された。
その事実を、誰も処理できずにいる。
しかし——
最初に、動いた者がいた。
「……てめえ、正気かよ」
アルヴィン陣営から、大柄な生徒が一歩、前に踏み出した。
白地に銀の刺繍が入った制服の下で、肩と腕の筋肉が盛り上がっている。長く剣を握ってきた者の手だ。
その手は、すでに腰の剣の柄にかかっていた。
「ただの護衛騎士が、レオナルド殿下に手を上げるたあ、どういう了見だ」
その言葉が終わるより早く、クレイン側も爆発した。
「どういう了見?だったら、そっちの王子様が、ウチの王女様を衆人環視で辱めたのは、どういう了見なんだい?」
黒と紅の集団から、ショートヘアの女生徒が冷たく言い返す。
彼女の手もまた、剣の柄を握り、指の関節が白くなっている。
「あれは婚約破棄だ。正当な手続きだろうが!」
「正当?外交文書の一通も出さずに、三国の生徒の前で一方的に宣言するのが、どこが正当なんだ!」
「だいたい、お前らクレインは、婚姻に乗じてウチに取り入ろうって魂胆だったんだろ!」
「ふざけんな!誰が!」
両陣営が、同時に剣を抜いた。
金属が擦れ合う甲高い音が、広間に響き渡る。
一本だけではない。十数本もの剣が、シャンデリアの灯りを冷たく反射させていた。
「やれるもんなら、やってみろ!」
「上等だ!」
両国の生徒たちは、まるで二つの群れの狼のようだった。
数歩の距離を隔てて対峙し、剣先を突きつけ合い、荒い息をぶつけ合っている。
あと一言でも誰かが発すれば、この舞踏会は血の闘技場と化すだろう。
エリア連邦の生徒たちは、一斉に後退し、壁に張り付いた。
誰も、二つの軍事大国同士の喧嘩に巻き込まれたくはない。
淡い黄色の制服の集団は、嵐のなかで岩礁にしがみつく海鳥のように、一塊になって震えている。
誰も、止められない。
誰も、止めようとはしない。
その時——
「そこまでだ」
低く、老成した声が、氷水のように全員の頭から浴びせられた。
いつの間にか、広間の正面扉が、開け放たれていた。
その入り口に、一人の老人が立っている。
濃紺のローブは床に届くほど長く、袖口には三学級の紋章が刺繍されていた。
白髪は一筋の乱れもなく後ろへ撫でつけられ、その顔は痩せているが、眼光だけは異様なほど鋭い。
聖ノーン学院学院長。
オールデス・グランウェル。
いつからそこにいたのか、誰にもわからなかった。
だが、その場にいた全員が、同時に理解した。
——この老人は、最初から、ずっと見ていたのだ。
オールデスは、ゆっくりと広間へ足を踏み入れた。
革靴が床を踏む音だけが、静寂の中でやけに大きく響く。
彼はどちらの剣にも目をくれず、ただまっすぐに広間の中央へと歩みを進め、両国の生徒が対峙するちょうど真ん中で、立ち止まった。
「剣を収めよ」
怒鳴りもせず、威圧もしない。
ただ、淡々とした一言だった。
だが、最初に折れたのは、アルヴィンの生徒たちだった。
剣先が、わずかに下がっていく。
クレインの生徒たちは、まだ収まらない。
「学院長!ですが、先に仕掛けたのは——」
「剣を、収めよと言った」
オールデスは顔だけを向け、そのショートヘアの女生徒を見た。
厳しい目ではない。
失望の目だった。
女生徒は唇を噛み、剣を鞘に収めた。
オールデスは、それから初めて、レオナルドへと視線を移した。
「第二王子殿下」
レオナルドは全身を震わせ、ようやく顔を上げた。
「今夜の次第、この老いぼれ、全て見届けましたぞ」
オールデスの声に、抑揚はない。
「殿下の先ほどの言動について、老いぼれがとやかく申すことではありますまい。しかし、ここは聖ノーン。アルヴィンの王宮ではありませぬ。婚約を破棄するのであれば、外交ルートも、正式な書面も、非公開の会議もありましょうに。よりにもよって、最も選んではならない方法を選ばれた」
レオナルドの唇が動いたが、何も言葉にならなかった。
オールデスは、それを待たなかった。
「老いぼれも、年だけは食っております。殿下以外にも、多くの王族をこの目で見てきました。感情に任せて動いた者は、最後には必ず、代償を払うことになる。殿下も、その例外ではありますまい」
レオナルドの顔から、赤みが引き、蒼白へと変わった。
オールデスは向き直り、広間全体を見渡した。
「今宵の舞踏会は、これまでだ。三国の生徒は、それぞれ持ち場へ戻りなさい」
誰も動かなかった。
「散れ」
アルヴィンの生徒たちが、最初に背を向け、足を引きずるようにして脇の扉へ向かった。
レオナルドは、その中心で、まるで操り人形のように支えられながら連れられていく。
クレインの生徒たちも、相手を一瞥してから、反対側の出口へと去っていった。
エリア連邦の生徒たちは、我がちに正面玄関へと雪崩れ込んだ。
広間は、ゆっくりと、空っぽになっていく。
カレンは、すぐには動かなかった。
高台の端に立ち、潮が引くように散っていく人波を、じっと見つめていた。
それはまるで、引き潮の後に露わになる、暗い岩礁を見るかのようだった。
オールデスが、彼の横を通り過ぎる瞬間、ほんの少しだけ足を止めた。
老人はカレンを見ようともしなかった。
ただ、ごく小さな声で、こう言った。
「……まさか、本当にやるとはのう。じゃが、ようやった。大儀であった」
そう言い残し、オールデス学院長もまた、去っていった。
カレンは、学院長の後ろ姿が脇扉の向こうに消えるのを見届けてから、ようやく向きを変えた。
クレインの生徒たちが引き揚げていった、あの廊下へと足を向けるために。
廊下は、長かった。
燭台の火が、吹き抜ける風に揺らめき、石壁に映る影を、不気味に長く縮めている。
クレインの生徒たちの足音も、怒号も、もう遠くへ消え去っていた。
ただ、廊下の奥に、一つだけ。
ヒリア・フォン・クレインが、壁にもたれて、うつむいていた。
真っ白な長い髪が、顔の前に垂れ下がっている。
黒と紅のドレスの裾は膝の上あたりで止まり、素足が冷たい石板の上に投げ出されていた。
彼女の手には、あの赤いハイヒールが、ぶら下げられている。
細いヒールが彼女の指先に引っかけられ、血のような紅玉が、揺れる燭台の火を受けて、ちらちらと瞬いていた。
まるで、固まった血の滴のように。
カレンは、足を止めた。
廊下を抜ける風が、ヒリアの白い髪を何筋か攫い、その湿った目尻に貼りつかせた。
ヒリアは、顔を上げなかった。
だが、その声は、垂れた白髪の向こうから、くぐもって響いてきた。
「……カレン。ありがとう」
声はとても小さく、少し鼻にかかっていた。
泣き出した後のようでもあり、必死に堪えた後のようでもあった。
ようやく、ヒリアは顔を上げた。
菫色の瞳には、まだ薄い水の膜が張っている。
けれど、一滴も、こぼれてはいなかった。
「……今日は、ちょっと疲れたわ。背負って、帰ってくれない?」




