第二話
「なんだか面白いことになってるねー。大谷さんに可南子ちゃん、二人も部屋の中に連れ込んじゃって! もー! いつの間にこんなに手が早くなっちゃったのかなー」
帰ってきたばかりで状況を把握していないらしい。ぼくは言った。
「メアリーさんはそこにいるんだ」
「え?」
大谷さんが目を丸くした。
可南子ちゃんが息を飲んだ。
二人の微妙な反応の違いは、アパート入居当初の幽霊騒ぎを知っているか否かの差だ。
いきなりの暴露に、メアリーさんも唖然としている。
「いま大谷さんの胸を触ってる」
「ええっ!?」
メアリーさんに軽く睨まれた。しかし大谷さんにはそんなことは分からない。
「め、メアリーさんって幽霊とか、そういう存在なの?」
ぼくはすぐには答えなかった。
可南子ちゃんが眉をひそめた。
「やっぱり、お兄ちゃんの脳内彼女かも……」
「メアリーさんはそこにいるんだ。二人には見えないかもしれないけれど……ぼくにはそれが分かるんだ。ごめん。いきなりそんなことを言っても信じられないよね。でも、それだけは知って欲しかったんだ……」
ぼくは健気に笑った。
寂しげに、信じて欲しそうに、しかし諦め混じりに。
「小林くん……!」
「お兄ちゃんっ」
二人は、ぼくのことを見た。
目を潤ませて、優しい声で言った。
「八木先輩にフラれたのがそんなに辛かったんだ? 大丈夫。あたしにはそんな強がりは言わなくていいから。ね?」
「ごめんねお兄ちゃん……設定にすぐ合わせてあげられなくてごめんね……っ」
ぼくはなおも言い募った。
「め、メアリーさんはいるんだ! そこにいて、ぼくを睨んでいるんだ!」
メアリーさんは微妙に笑いをこらえていた。
やり過ぎただろうか。
「大丈夫、大丈夫だからっ。もう何も言わなくていいの」
「お兄ちゃんがこんなになってたなんて……わたし……がんばる! 頑張ってお兄ちゃんをまっとうな生き方に呼び戻してみせるからっ」
ぼくを指さしながら、メアリーさんが笑い転げてやがる。
若干の犠牲もあったが、ぼくは窮地を脱したと確信したのだった。
しばらく経って落ち着いたところで、ことの次第と現状を再度説明した。
デリケートな問題も孕んでいるため、詳細については濁した部分も多かった。
大谷さんは何か言いたげにしていたが、最後まで黙っていた。
可南子ちゃんは信じているのかいないのか、よく分からない。
時折、切なげな眼差しを向けてきた。
メアリーさんは自分のことを語られるのが恥ずかしいのか、あっちにうろうろこっちにうろうろ、いつも以上に落ち着きがなかった。
「というわけで、メアリーさんとは一応同居状態なわけです」
「そう、だったんだ」
大谷さんは信じたような顔つきをした。
可南子ちゃんは、そのまま、すっと視線を合わせてきた。
「分かってる」
「何がかな」
「つまり、お兄ちゃんはメアリーさんのことが好き、なんだ」
ぼくが言葉を返すより早く、可南子ちゃんは立ち上がった。
いつもの儚げな様子とは随分と異なり、かなり気合いの入った動きだった。
「わたし、今日は帰るね。……お兄ちゃん、またね」
玄関のドアに向かって歩き出した可南子ちゃん。
靴を掃き終えて、一度だけ振り返った。
メアリーさんのいる場所に向かって。
視線こそその方角を見据えているが、見えてはいないようだった。
おそらく、ぼくの視線の動きから、メアリーさんの位置を察したと思われた。
「わたし、負けないからっ」
ぼくはその背中を追えなかった。
残ったのは同じように見つめる二組の瞳。
「うん。あたしも負けてられないわ。小林くん。明日、また学校で」
続いて、苦笑していた大谷さんも、ゆっくりと立ち上がる。
教室で見たことのある表情とは随分と違う、とても透き通った真剣な顔つきを見せつけて。
ぼくをじっと眺めてから、くすりと笑った。
「大丈夫よ。八木先輩との関係については、ちゃんと分かったから。……あたしは小林くんが優しいことを知ってる。……それだけよ。それだけで、充分かな」
去り際の大谷さんは、すごく柔らかな笑顔を浮かべた。
「じゃあ、ね」
「うん。また明日」
大谷さんの姿が見えなくなるまで、玄関で見送った。
二人がいなくなってから、メアリーさんが言った。
「ショージくん……いや、やっぱりいいや」
「気になるから最後まで言ってもらった方が嬉しいんだけど」
「じゃあ言うけど……。わたしのこと、好き?」
ぼくは深々と息を吐き出して、いつものように軽い口調で答える。
「まあ、そこそこ」
「そっか」
メアリーさんは小さく笑った。
人数が減って二人きりになった部屋は、手に負えないくらい静かだった。似合わないシリアスな顔をして、メアリーさんが小声で呟いた。
「本気で出て行って欲しいなら、わたしはいつでも、この部屋を出て行くよ。わたしのことを好きになってくれたら嬉しいけど、それを強制することは出来ないし」
ぼくは言った。
「嫌いでは、ないです」
「そう?」
「……幽霊じゃなければ」
「そーだね。たぶん幽霊なんかじゃなくて、普通の人間だったら、ショージくんのところに押しかけて、とっくにハッピーエンド。並み居る恋のライバルをばったばったとなぎ倒し、必殺とか奥義とか言いながらビーム出してメアリーさん無双とか呼ばれる状況に……っ!」
ぼくは目を伏せた。
メアリーさんは振り上げた拳をそろそろと降ろした。
「……ごめん」
謝られても、なんて返していいのか分からなかった。
触れられないメアリーさんは、ただ言葉を交わすだけの相手でしかない。
好きになるのはいいさ。
でも、そのあとは。
愛を語らって何になる。
キスはおろか、抱きしめることもできず、手さえ繋げない。
隔たりを踏み越えられない。
気の合う友人みたいな立ち位置から先に進むことは出来ない。
やだな。
分かってる。全部分かってる。
でもどうしろっていうんだ。
「好きですよ。好きだから、どうしろってんですか」
言ってしまった。
二人の気持ちを知って。今のメアリーさんの雰囲気に呑まれて。
「メアリーさんを好きになったって、どうしようもないじゃないですか」
言葉をそのまま吐き出す。止められなくて、溢れた。
ぼたぼたと頬を伝った雫が出しっぱなしの座布団に黒い染みを作っていく。
「このままで、いいじゃないですか」
女々しい。どこの少女漫画の主人公だよ。
でも、もう止められなかった。
「ぼくの部屋にメアリーさんがいて、このぬるま湯みたいな関係で、それが続いたっていいじゃないですか。好きだからどうなるっていうんですか。ぼくだって男です。好きだ好きだって毎日言われたら意識しますよ。でも我慢してたのに、どうするんですか。ぼくは……どうしたらいいんですか」
「ごめん」
「好きになっていいって、そう言ったのはメアリーさんじゃないですかっ!」
こんなことを言いたかったわけじゃないのに。
「さゆりさんとか大谷さんとか可南子ちゃんのことだって好きです。そりゃ好かれて悪い気はしません。するわけがない! でも、ぼくにはメアリーさんがいる。メアリーさんとの関係に決着を付けないまま他の誰かの想いに応えるなんて、そんなこと……」
声が、喉に引っかかる。メアリーさんの瞳は揺れていた。
音がした。
ドアに何かがぶつかったような。そして遠ざかろうとする足音。
部屋を飛び出した。
ドアを開き、こちらに背を向けた可南子ちゃんに告げた。
「待って」
振り返った顔には、寂しげな微笑みを浮かんでいた。
「ごめんなさい……出してくれたお茶のカップ、洗ってから帰ろうと思って……」
引き返して、そしてさっきの話を聞いた。
懲りろよぼく。何度目だ。
壁に耳ありって、分かっているのに。
可南子ちゃんが笑いかけてくる。
「さっきも言ったよ……お兄ちゃんはメアリーさんが好きって、分かってる。分かってた。だってメアリーさんのことを話してくれたお兄ちゃんの顔が、表情が……」
何かをこらえる顔をして、可南子ちゃんは言った。
「でも、わたしも……わたしのことも、見てくれるよね……?」
「ぼくは……」
情けないことに、すぐさま返す言葉を持っていなかった。
「答えは、すぐじゃなくて、いいよ。本当はね……お兄ちゃんを困らせるつもりなんか、なかった。まだ時間がいっぱいあるって思ってたし、だから、もっとゆっくりと、わたしをそういう対象として見てくれるまで……待ってるつもりだった……」
たまたま、そういう空気になったから。
メアリーさんについて気になって、話の流れで聞き出そうとして、大谷さんが現れて、自分の焦りを抑えられなくて、負けたくなくて、そういうふうに可南子ちゃんはいくつも言葉を費やした。
ぼくのせいじゃないからと、こんなに急ぐつもりも、追い詰めるつもりもなかったと慰めるように口にした。
そうだ。
慰めるように、だ。
年下の女の子に、すごく気を遣われているんだ。ぼくは。
「可南子ちゃん。断ることも、頷くことも出来なくて、ごめん」
「……うん」
ぼくたちのあいだには、うるさいくらいの静寂があった。
「じゃあ、今度こそ帰るね。盗み聞きして、ごめんなさい」
これからカップを洗うとは言い出さず、可南子ちゃんは静かに去っていった。
部屋に戻ると、引っ込んでいたメアリーさんが肩をすくめた。
「可南子ちゃんは……なんていうか出来た子だよね。どうせ選ぶなら、わたしよりもあの娘の方がいいかもね」
渇いた声だった。
ぼくはその言葉に何も反応せず、部屋の真ん中に座り込んだ。
三つある座布団のひとつにぼく、メアリーさんがもうひとつに座る。
「……寝ます」
「う、うん」
ぼくは、そのまま床にうつぶせに倒れ込んだ。
ベッドは向こう側にあるが、そこまで行く気力もなかった。
もう一つの座布団を手に取った。
被るようにして耳に当て、さらに強く目をつぶった。
無理矢理に眠りに落ちる直前、小さな声が聞こえた気がした。
「わたしだって、こんなに困らせるつもりはなかったんだけど、な」
それが現実のことか、夢の中だったのか、ぼくにはもう分からなかった。




