第三話
「どういうことです?」
床で寝たせいで身体がぎしぎし言っているが、そんなことが些事に思えた。
「大丈夫だってば」
「どう見ても大丈夫には見えないです。幽霊なのに風邪引いたみたいな」
いつも元気いっぱいなメアリーさんが、今日はひどい顔色だった。
血の気の引いた唇、どこか弱々しい笑顔。
窓から射し込む朝の光に照らされても輝くどころかくすんで見えた。
「つい徹夜しちゃっただけだよ。でもショージくんの寝顔はほとんど見れなかった。……せっかくチャンスだったのにな、もうっ! わたしの楽しみを奪わなくてもいいのに」
口調こそ明るかったが、青い瞳が心細げに揺れていた。
「御託は良いからそこで大人しくしてください」
すり抜けるため意味があるかどうか不明だったが、一応、ごねるメアリーさんをベッドまで連れて行った。
彼女は毛布から顔だけ出して、ちらちらとぼくを見上げてくる。
「そ、その。……優しくして、ね?」
「いいから寝てろ!」
メアリーさんが、すんすんと何かをかぐ仕草を見せた。
「ショージくんのにおいがする」
「嘘を吐け幽霊」
「うう、雰囲気くらい味合わせてくれてもいいのに……」
体温はないけれど顔が赤くなる。
食事はいらないが睡眠は必要。
壁抜けは出来るけど床抜けが出来ない。
ものをすり抜けるくせに、ベッドの上には横たわることが出来る。
アカネさんが最初さゆりさんと話せず、事後に夢枕に立ったように、幽霊にもルールがあるのだろう。
そのうちに自然と寝入ったメアリーさんを眺め、その近くに腰掛けた。
寝返りをうつたび金砂のような髪が流れる。
熱に浮かされたりひどい咳が出るわけではない。
症状が表面に出ないのではなく、存在していないように思われた。
ただ、ひたすら疲弊している。そんな印象だった。
今日はメアリーさんと一緒にいることに決めた。
体調が悪いため休むと学校に連絡した。主語を入れなかったから嘘ではない。
ふと頭を過ぎった。
大谷さんが昨日来てくれたのは、今日学校で必要になるものを伝えるためだった。
申し訳ないことをした。
ぼくはベッドの木枠に背をもたれ、ため息混じりに軽く目を瞑る。
何をどれだけ考えても心は晴れてくれなかった。
◆◇◆
昼食は余り物で済ませた。
メアリーさんは完全に眠っているため、大きな音を立てるわけにもいかない。
何度も読み込んだ文庫本を手に取るが、文章がまったく頭に入ってこない。
ページをめくる手は止まったままで、妙に寂しい静寂が耳朶を打つ。
「ショージ……くん……」
か細い声は、メアリーさんの寝言だ。
ベッドの上に覗く寝顔をぼんやり眺めた。
綺麗な顔だった。
透明感のある白い肌だった。
ただ、幽霊のくせに妙に生き生きとしたいつもの感じではない。
今日のメアリーさんは本当に透き通っているみたいだった。
ひどく薄い。なんだか遠い。
胸は上下していて呼吸しているのに、あるべき吐息も感じ取れない。
頬に触れようとすると、何の感触もなくすり抜ける。
体温も分からない。
目には見えている。呼吸音も聞こえている。
それで十分と思うしかない。
メアリーさんは穏やかに寝息を立てていた。
まるで生きているみたいに。
何をするでもなく見つめた。ただひたすら、その顔を見続けた。
「無防備な女の子の寝顔を眺めるなんて、なかなか良い趣味をしているわね」
突然の声に振り返ると、背後にアカネさんがいた。咄嗟に叫びかけて口を押さえた。
肌が粟立つのを抑えられない。
以前の遭遇と同じく、部屋の温度が低くなったように感じた。
「それほど驚かなくても良いでしょうに。……わたくしが認めたのですから、貴方、もう少ししゃんとしなさい」
頷いた。
アカネさんも声を抑えてくれた。
「わたくしも心残りがありましたから、こうして最後に貴方の元に現れたのです。望みを叶えてくれた、その礼の代わりよ」
「さゆりさんを通して伝言は受け取りましたが」
「伝え忘れたわけではないわ。貴方たちのことだから直接言うべきだと思ったのよ。……そこのメアリーなる娘、わたくしとは違うと気づいていましたか」
意味が分からず視線で問うと、アカネさんは嘆息した。
「わたくしは死霊だけれど、その娘は生き霊なのよ。疾く元の身体に戻しておあげなさい。随分とひどい状態。……放っておけば本当に死ぬわよ」
反射的に、横になっているメアリーさんに顔を向けてしまった。
「メアリーさんは、まだ生きている……と?」
「そう言っているわ。気づいていないようだったから伝えに来てあげたのです」
「ゆ、猶予はどれくらい残ってますか」
「……半年と言ったところかしら」
それを聞いて、ほっとした。
あと数日とか言われたらどうしようかと思った。
「但し、それはこれから何もしなければの話よ。その娘が無理をして何か消耗するようなことをしてごらんなさい。残り時間はどんどん短くなるわ」
絶句してしまった。
考えなければいけないことがいくつもあった。
「わたくしは去るわ。結末を気にするほど無粋ではないつもりだもの」
「ま、待ってください! どうやって身体に戻せば――」
「そうね、たとえば本人の身体に引き合わせ、二つに別れてしまった縁を何かで繋ぎ直せばよいのではないかしら。……ただ、上手くその娘が元の身体に戻れたとして」
少しだけ考えるような間を空いて、こうも告げられた。
「生き霊として行動していた日々。その記憶については諦めた方が良いでしょう。その娘のためを思うなら……それでも頑張りなさい、男の子」
アカネさんはそこまで言い終えると、淡い光として宙に溶けていった。
感謝の言葉を告げる暇さえ与えてくれず、アカネさんは去った。
メアリーさんは眠ったままだった。
ベッドの木枠にもたれ、メアリーさんの寝顔を見ることもなく、放り出した文庫本を再び手に取ることもなく、ぼくは目を閉じた。
◆◇◆
いつの間にか眠っていたようだ。
目が醒めると、メアリーさんが顔を覗き込んでいた。
少し驚いたものの、彼女の顔色の悪さが若干和らいでいたことに安堵する。
「あはは、心配かけちゃったね。ごめんね」
「もう大丈夫ですか」
「うん。最初からそう言ってるでしょ。ただ、すごく身体が重かっただけで」
「……あまり心配させないでください。幽霊のくせにあんな風に具合を悪くされたら、ぼくにはどうすることも出来ませんし」
メアリーさんが、びっくりした顔でぼくを見た。
「デレた? ショージくんツンデレさんだったの?」
「誰がツンデレか」
「うーん。昨日の話からすると、まさにその通りだったんじゃないかなー」
「もう口にしちゃった以上好意は否定しませんし、今日だって心配したのは確かですが」
「やっぱりデレてる! でもツン状態に慣れちゃってるから、なんだかとっても違和感があるよ! ……ああ! これって知らぬ間に調教されちゃってたってこと?」
「人聞きが悪すぎる!」
「これって……恋?」
「綺麗な表現に言い換えても手遅れです!」
「つまり恋は開発!? そんなあ……ショージくんがテクニシャン過ぎる……」
「処女のくせに何を言ってんですか!」
「か、確認したの? まさか寝ているあいだに……? うう、そんなに欲求不満だったなんてっ! ごめんね。わたしが魅力的すぎるのがいけなかったんだねっ!?」
「触れねーのに確認なんかできるかアホッ!」
普段通りを心がけたが、勢いが付きすぎた。
流れを戻すために話題を変えた。
「さっきアカネさんが来ましたよ」
「え、あのひと満足して成仏したんじゃなかったの? 挨拶は残してたみたいだけど」
「お礼を直接言いたかったとか。わざわざ来てくれたみたいです」
アカネさんに教えられた事実について、ぼく自身、まだ心の整理がついていない。
内容を誤魔化したのは、ぼくのずるさだ。
「そうだ。メアリーさん、もしかして壁抜けって結構疲れます? 軽い気持ちで何度か頼んじゃいましたけど、それが原因で疲労が溜まってたのかもしれませんし……」
「ショージくん!」
勢い込んで顔を寄せられた。すわ何か感づかれたかと思いきや。
「わたしのこと、本当に心配してくれてるんだ。ありがとうっ」
金色の髪が煌めいて、本当に、笑顔がきらきらと輝いているようだった。
「だけど大丈夫だってば。ほら、わたしって幽霊だから。壁抜けくらいお手の物だし。頑張ればポルターガイストくらい出来そうだし」
「メアリーさん!」
「な、なに。そんな真剣な顔して。……ねえ、近いよ、ショージくん」
少しだけの間。
それから咳払いして、ぼくはゆっくりと身体を離し、言った。
「出来そうでも、やらないでくださいね」
「で、でも、やっぱり幽霊としてはそれくらい出来ないといけないかなーって」
「必要ありません」
「風に見せかけて可愛い女の子のスカートをめくるのにも使えるけど」
「……ダメです」
「あ、今考えた! ちょっと考えたでしょ!」
さっと目を逸らした。
「まったくもー。仕方ないなぁショージくんは。わたしのパンツ見せてあげるから。それで我慢してね」
いそいそとスカートに手を掛けるメアリーさんだった。
しかし実際には、パンツを見せたことはほとんど無いし、やるたび微妙に顔を赤くしてぼくの制止を待っている。
「……あれー。ショージくん? ショージくーん? ツッコミは?」
「在庫切れ」
「えええええっ!?」
あたたかな日常、いつも通りに見える光景が、ここにある。
ぼくは知っていた。
やるべきことをやる。ハードボイルドな男が格好良い理由は、それが出来るからだ。
いや、不可能と思っても、鉄の意志でやり遂げるからなんだ。
ぼくはメアリーさんの顔を見つめた。
「ん、なーに?」
「なんでもありません」
メアリーさんは、いつも以上に楽しそうに見えた。




