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壁に耳有り、ショージにメアリー  作者: 三澤いづみ
第四章

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第一話

「僕は嘘をいうのはいやだ。そしていいたくないことはいわない」

             レイモンド・チャンドラー『かわいい女』

  

 メアリーさんがいない部屋は、どうしようもなく静かだった。

 なまじ時間が出来てしまうと余計なことばかり考える。


 二人分の足音が聞こえて、ぼくの部屋の前で立ち止まった。

 ドアを開ける前に、大きめの声が響いた。


「小林君、いるかい?」


 大家さんだった。

 気怠い身体を動かして、玄関まで出た。


「こんにちは。いただいた煮物、美味しかったです」

「それは良かった。うちのに伝えておくよ……ああいや、小林君、今、暇かな?」

「暇ですけど」

「少し頼まれて欲しいんだが……」


 大家さんの後ろに覗く、白いブラウスにデニムスカート、いつもより抑えめの服装に身を包んだ可南子ちゃんが口を尖らせていた。



 頼まれたのは可南子ちゃんの定期検診の付き添いだった。

 行き先は市内だが、ちょっと遠くにある病院だ。


「一緒に行く予定だったんだが、急な仕事が入ってしまってね」

「わたし一人でも行けるって言ったのに、お兄ちゃんまで巻き込んでっ」


 大家さんが顔を緩めた。

 怒ってる娘も可愛い、とか思ってそうだ。


「すまん。もう行かなければ……可南子を頼んだよ、小林君」

「任せてください。可南子ちゃんはぼくが責任を持って送迎しますから」


 大家さんは何度も振り返り、早く行ってと可南子ちゃんから怒られていた。


「ごめんなさい、お兄ちゃん。大丈夫だって言ったのに……もう、お父さんはっ」

「いやいや。良いお父さんだと思うよ」


 いつも大人しい可南子ちゃんも父親相手には強く出られるらしい。

 ぼくは、ころころ変わる表情を眺めた。


「あ、あの、お兄ちゃん。どうしたの、わたしの顔をじっと見て」

「今日の洋服はいつもより似合ってると思ってね」


 普段の少女趣味も悪くないが、可南子ちゃんは服装で強調しなくとも十分可愛い。


「……っ」


 照れた。顔が真っ赤になった。

 ぼくの腕のあたりをぽかぽかと叩いてくる。

 大家さんの気持ちがすごく分かる。


「じゃ、行こうか。保険証は持った? 診察券とお金はある?」

「お兄ちゃんまでわたしのこと子供扱いしてっ……」

「はっはっは。高校生からしたら、中学二年生なんてまだまだ子供だよ」

「むー」


 可南子ちゃんは小鳥のように首をかしげた。



◆◇◆



 無事に診察を終え、その帰り道のことだった。

 可南子ちゃんは小さい頃身体が弱かったため、一ヶ月に一度、かかりつけの医師に診て貰っているそうだ。


 停車したバスから降りて、アパートまでの帰路を並んで歩いた。


「お兄ちゃん」


 可南子ちゃんは、ほんの少し躊躇った。

 しかし、はっきりと問いをぶつけてきた。


「メアリーさんって、だれ?」


 見上げてくる瞳に不安があった。

 違う感情も揺らめいていた。

 すぐ恥ずかしがる可南子ちゃんには珍しく、答えを聞くまで目を逸らさない気概が伝わってきた。


「お兄ちゃんの……彼女さん?」

「違うよ? 全然違うよ?」


「じゃ、じゃあっ。脳内彼女さん?」

「可南子ちゃん、どこでそんなろくでもない言葉を覚えたのかな」

「お父さんが前に言ってたの……」


 大家さーん。

 純真な娘さんに向かって何言ってくれてるんですか。


「メアリーさんはそういうのじゃないよ」

「ウソはイヤだよ……」

「いや、ウソとかじゃなくて」

「だってお兄ちゃん、メアリーさんと話してるとき楽しそう。姿が見えないだけで、ちゃんと会話してた……」


 まさに壁に耳あり。

 いや、賃料の安いアパートでありながら、話し声が筒抜けになるほど壁は薄くない。

 けれど、ドアが開いていたら壁の厚さは関係なかった。


「あのときも、本当は聞いてたの。聞こえてないって言ったけど」


 知ってた。


「お兄ちゃんが、なんかすごいことを叫んでたから……気になっちゃって」


 ごめんなさい大家さん。

 可南子ちゃんが道を踏み外したらぼくのせいだ。


「だから、メアリーさんって、お兄ちゃんの大事なひと……だよね?」


 なるほど。

 率直すぎる問いかけに、ぼくは答えられずにいた。


「ち、違うの? 身体だけの関係なの? お兄ちゃんが、弄んでたり、する……の?」


 現在地はアパートの近所だった。

 純真可憐なゴスロリ美少女がちょっと涙目になってぼくに詰め寄りながら今の発言をしている光景は、端からどう見えるか。


「こ、小林くん」


 後ろから聞こえてきた声に、ぼくは凍り付いた。


「八木先輩だけでは飽きたらず……こんな可愛い子まで……」


 大谷さんだった。

 薄手で若草色のチュニックに、ベージュのチノパン。

 私服姿は初めて見る。

 そんな彼女は、ぼくと可南子ちゃんとを交互に見て、唇をわなわなと震わせていた。


 静まりかえった道の向こうから、野次馬の声が耳朶を打つ。


「あの子たちの雰囲気。これは修羅場の現場ね! ご覧になりました奥様?」

「同い年と、年下の子の二股。すごいわねぇ。あたくしの若い頃なんて……」


 近所の奥様方にばっちり目撃されてしまった。


「大谷さん」

「な、なによ」


 握り拳を作っていた大谷さんの手を取って、ぼくから目を合わせた。


「何か誤解があるようですが、とりあえずここから離れませんか。あと、さゆりさんとはそういう関係ではありませんから」

「このひとがメアリーさん、ですか? それに、さゆりさんって……」

「メアリーさんってなんのことよ。あ、まさか小林くんっ!」


 暇を持てあました奥様方の遊び、もとい推理がぼくらを切り裂いた。


「今の話聞きました奥様? まさかとは思いましたがあの子、四股しているのでは?」

「あたくしもそう思いますわ。ええ、ええ! 元気でよろしい。まったく、あたくしの若い頃を思い出しますわね。ですが四人同時だなんて、あたくしもう……!」


 ようやく生暖かい視線に気づてくれた大谷さんが、ぼくの腕を強く掴んだ。


「こ、小林くん!」

「なんでしょう」

「家に、家に行って話しましょう!」


 声が大きいです。

 奥様方の声が聞きたくもないのに聞こえてしまう。


「若いっていいですわねぇ」

「体力と情熱が有り余ってるんでしょうねぇ」


 人見知りながら、普段は誰にも笑顔で応対する可南子ちゃんが、珍しく敵愾心を露わにして大谷さんを見上げている。


「一応聞くけど、誰の家にかな?」

「小林くんの家に決まってるでしょう!」


 大谷さんは自分で言い出したことなのに、ぼくのアパートに近づくにつれ、だんだん顔を強ばらせていった。

 可南子ちゃんは、横からぼくの服の裾を掴んで、遅れないように必死に歩く。


「手、繋ぐ?」

「……うん」


 何気なく提案すると、可南子ちゃんは真顔で頷いた。

 ああ、なるようになれ。


 空を軽く見上げた。

 果てしなく青い空に、太陽は燦々と輝いていた。



◆◇◆



 部屋に二人を迎え入れた。

 座布団を出して、手早く飲み物だけ用意する。


 ぼくが何かを話すより前に、横に座った二人がそれぞれ自己紹介を始めた。


「あたしは大谷さなか。見ての通りにクラスメイトよ。……小林くんに渡し忘れたとかで、これを持っていくように頼まれたの。家に電話したけど繋がらなかったから、直接言うか、部屋のドアノブにメモでも残しておけばいいかなって。家もそんなに遠くないしね」


 はい、と渡されたのは数枚のプリントだった。


 たまたま部活中に担任に出くわして、大谷さんが連絡役として遣わされた。

 大谷さんの家は言うほど近くなかった気がしたが、ぼくの覚え違いだったのだろう。


「わ、わたしは美里可南子です。お兄ちゃんとは……親しくさせてもらってます」

「へえ」

「……し、親しくしてますっ」

「小林くんのこと、お兄ちゃんって呼んでるけど……義理の妹じゃないんでしょ?」

「あ、はい。その、うちのお父さんがこのアパートの大家さんやってて、それで」


 ぼくは中心に挟まれているのに、蚊帳の外である。


「お兄ちゃんのことは、本当はお兄ちゃんのようには思ってなくて」


 いきなり聞き間違いであって欲しい言葉が聞こえてきた。


「わ、わたしはお兄ちゃんじゃなくて……もっと別の関係の方がいいんだけど、でも最初は家族みたいな方が距離が近くていいかもってお母さんが言ってたし……」

「小林くん。どういうこと」

「ぼくに言われても」


 大谷さんのプレッシャーに負けた。

 可南子ちゃんは誰の目から見ても美少女だが、若干方向性が違うだけで、大谷さんもかなり可愛い部類に入る。


「……単刀直入に聞くわ」

「わ、わたしも聞きたいことが」


 二人が顔を頷き合った。

 ぼくの部屋なのにアウェー感がすごかった。


「小林くん。いま、付き合っている相手はいるの?」

「いないよ」


 即答に安堵した様子の大谷さんを横目に、可南子ちゃんが間を開けず続けた。


「じゃ、じゃあ! 好きなひとは……?」


 口を開こうとして、声に詰まった。


「そっちは即答、しないんだ」

「お兄ちゃん……」


 絞り出すようにして声を発した。


「いや、いっぱいいるから特定の一人には決められないというか。ほら、ぼくの周囲にいる女性はみんな魅力的だからさ」

「正直に言えば良いってものじゃないんだけど」


 大谷さんが肩をすくめた。失望の混じった表情だった。


「やっぱり、メアリーさんってひとなんじゃ……」

「そうよ。そのメアリーさんって、どういうひとなの?」


 可南子ちゃんが近づいてきた。

 大谷さんもにじり寄ってきた。

 花のような良い香りがした。 


 不意に口を突いて出たのは、こんな言葉だった。


「二人とも、ぼくのことが、好きなのかな?」

「あ、あたしはただ、八木先輩に粉かけてた小林くんが他の子に目移りしてるとかどーなのよと思って、だったらもっと身近で手の届く、たとえばあたしみたいな子を選んだ方が良いんじゃないかなって思ったりしただけなんだから!」


 大谷さんが一呼吸で言い切った。

 目は泳いでいるが。


 一方の可南子ちゃんは、ぼっと火が付いたように顔を真っ赤にして、頬に手を当てて。

 その場にぺたんと座り込んで動かなくなってしまった。


 迫り来る二人は動きを止めた。これで事態は改善した。したはずだ。だけれど、ぼくは引き返せない場面に飛び込んでしまったことに気づいた。

 座ったまま、天を仰いだ。

 見えたのは、いつものアパートの天井ではなかった。


 音もなく帰って来ていたメアリーさんが、面白そうに上から覗き込んでいたのだ。

 

 

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