第三話
可南子ちゃんと初めて顔を合わせたのは、高校入学から少し経ったころだった。
その間、隣近所に引っ越し蕎麦を配って仲良くなったり、気に掛けてくれる大家さんや奥さんと話し込んだりもした。
だから話題に出た娘さんについては耳にしていた。
「あ……」
薄曇りの空の下、アパートの敷地内で見慣れない少女を見た。
「こんにちは」
笑顔で挨拶してみた。
近所の中学校の制服を着て、どこか華奢な印象だった。
聞いていた通りの可愛らしい容姿で、可南子ちゃんだとすぐに分かった。
ぼくと目が合った瞬間、なぜか表情を硬くされた。
「……こんにちは」
ぎこちない笑顔で挨拶は返してくれたが、目を逸らしていた。
「初めまして。可南子ちゃん、だよね? ぼくは」
「知ってます……小林さん、ですよね」
「う、うん。それで可南子ちゃん」
「……ごめんなさい。急いでますから」
人見知りとは聞いていたが、それ以上に避けられていると感じた。
初対面のはずだ。
さっきの挨拶も問題は無かったと思う。
あるいは知らぬ間に何か嫌われることをしてしまったのだろうか。
ぼくの困惑をよそに、可南子ちゃんは足早に遠ざかり、視界から消えた。
あの拒絶の視線に肩を落とした。
なんだか切なかった。
◆◇◆
二度目に会ったのは翌日、家を出るときだった。
メアリーさんとのじゃれ合いの末、遅刻ギリギリの出発になってしまった。
玄関のドアを出た途端、晴れ渡った空が目に入ったが、同時に冷たい空気を感じて身をすくませる。
「おはよう可南子ちゃん!」
「……おはようございます」
可南子ちゃんは挨拶だけ返してくれたが、すぐさま歩き去った。
首をかしげるぼくに、見送りのために玄関先にいたメアリーさんが叫んだ。
「ショージくん! あの子でエロい妄想してるからだよ!」
「しとらんわ!」
「あ、天気予報が雨降るかもって! 傘を持ってって!」
「大丈夫。鞄の中に折りたたみ傘があるから」
少し離れた場所から、竹箒を持った大家さんが優しい顔でぼくを見ていた。
「いってらっしゃい小林君。人生いろいろあるが、頑張るんだよ……!」
「あ、はい。……行ってきます」
面倒くさくなって、ぼくは歩き出した。
どうしてこうなるんだ。
◆◇◆
席替えの結果、隣の席になった大谷さんとはよく話している。
「大家さんの娘さんから嫌われているようなんだけど、どうしたらいいかな」
「なんであたしに聞くのよ」
机の上に肘を突いて、大谷さんがそっぽを向く。
「乙女心に詳しい大谷さんなら、凄まじい対処法が思い浮かぶかもしれないし」
「勢いで畳みかければいいんじゃないかしら」
「なんかテンション低いね。こっちを見てもくれない」
大谷さんは背けていた顔を戻し、しかし冷たく睨まれた。
「真面目に考えて欲しいなら妙な言い方するんじゃないの」
「それもそうか」
納得し、頭を下げた。
確かに助言を求める態度ではなかった。
「そっちもあんまり元気ないわね。どしたの」
「美少女に嫌われた。これだけで落ち込むには充分だよ」
「へーえ。美少女なんだ、その子」
「しまった、大谷さんの嫉妬を煽ってしまったか……ぼくも罪な男だな」
反応は劇的だった。
そして大谷さんは案外付き合いが良い。
「な、なに言ってるのよ! そんなんじゃないったら!」
「なら対処法を教えてください。お願いしますプリーズ」
「分かったわよ! でも、小林くんのためじゃないんだからね! その子に小林くんが妙なことをしないように釘を刺すためなんだから! 勘違いしないでよね!」
絵に描いたような反応に、ぼくのみならずクラスが湧いた。
「ツンデレ乙」
「誰だ今の」
「誰がツンデレよ!」
「胸の突起をつんと突くとデレっとするとな?」
「誰です今のセクハラ発言は! 名乗り出なさい!」
「このクラス、どうしてこんな混沌としているの? 思い起こせば、小林と委員長が妙な化学反応を起こしたとき……流れに逆らってでも普通を貫けば良かった! 馬鹿なわたし! こんなクラスにいられないわ! 家に帰っててパインサラダとステーキを食べなきゃ!」
「さりげなく死亡フラグを立てたヤツがいるぞ……!」
「全然さりげなくねーよ!」
あっという間に収拾が付かなくなったが、いつものことだ。
気にせず話を戻した。
「でさ、大谷さん。どうしたらいいかな」
「何か誤解があるのかもしれないから、ちゃんと時間を取って丁寧に話すといいんじゃないかしら。誤解じゃなくて嫌われてるなら……諦めなさい」
無言で疑問の表情を向けると、大谷さんは真剣な顔で言った。
「嫌われてる相手と話すより、いま近くにいて、気軽に話が出来る相手と仲良くなった方が有意義だと思うわ。ほら、たとえばあ――」
「さなかちゃん!」
「なに、よしみちゃん」
親友である相沢さんの呼びかけに対し、大谷さんの返事は冷たかった。
「このクラスの混乱を鎮めてちょうだい。さなかちゃんにしか出来ないことなの!」
頼まれた大谷さんは、眼光鋭く、ひきつった笑みを浮かべて、教室内を一瞥した。
「あんたたち! いいかげん黙らないと……ねじ切るわよ?」
感情のこもった、すごい迫力だった。
大谷さんが動いた途端、みな素直に従う。
あの自己紹介以降、そういう立ち位置だった。
「魔王様だ! 魔王様が降臨されたぞ!」
「早く静かにするんだ! 息を潜めるんだ!」
一瞬で静かになった。
大谷さんはぼくと委員長を睨んでくる。
しかし丸顔で容姿も可愛い部類なので、少しくらい怒っても拗ねているようにしか見えない。
「こんなか弱いあたしを捕まえて魔王って何よ。そりゃ、みんなが言うことを聞くのはちょっと楽しいけど……気分が良いけど……あたしは普通の女の子なんだから!」
余談ではあるが、大谷さんが本気で嫌がった時点で魔王扱いは終了すると、クラスメイト全員で摺り合わせは終わっていたりする。
落ち着きを取り戻した教室で、大谷さんが冗談めかして言った。
「ねえ、小林くん」
「なにかな」
「こんなことになった責任、いつか取ってもらうんだから」
返事の代わりに肩をすくめておいた。
ハードボイルドとはほど遠いクラスの雰囲気だが、これはこれでいいか、と思った。
◆◇◆
可南子ちゃんとの三度目の邂逅は、その日、帰宅途中のことだった。
朝出るときは晴れていた空も暗くなり、風が冷たく湿っていた。
重苦しい曇り空に足を速めていると、視界の片隅に何か引っかかるものを見つけた。
可南子ちゃんだった。
出くわしたのはアパートとはだいぶ離れた場所だ。
可南子ちゃんの通う岸月中学校からも反対方向になる。
ぼくは横断歩道を渡って、急ぎ足の彼女に追いついた。
「こんにちは、可南子ちゃん」
「……こんにちは、小林さん」
可南子ちゃんは、ぼくを見て、はっきりと表情を険しくした。
その態度を気取られないためか顔を伏せて、足を止めずにそのまま去っていこうとした。
それでも挨拶を返してくれたのが、彼女の育ちの良さを示している。
ぼくとすれ違って、可愛らしい容姿がにこりともせず、憂鬱そうに遠ざかっていく。
「待った! 何か誤解があるようだけど、ぼくは」
「……小林さん」
鞄ひとつ握りしめた可南子ちゃんは足を止め、肩越しに一瞥を返してきた。
「そうやってヘラヘラ笑って……楽しい、ですか」
放たれた声は低く冷たく、そのときは何も言い返せなかった。
◆◇◆
いずこかに消えた可南子ちゃんの背中を見届けた。
「参ったなぁ」
一度立ち止まって、ゆっくりと周りを見た。
桜並木はすでに花を散らし、ほとんどが青々とした葉に取って代わられていた。
立ちこめた雲は暗さを増して、空はどこまでいっても灰色が続いている。
やがて、ぽつり、ぽつりと雨が降ってくる。
制服の内ポケットに手をやった。
少し固い文庫本の感触に、ぼくの目指すべき男のタフな姿を思い浮かべる。
「放っておけないな。これでもハードボイルドな男のつもりだし、さ」
あえて口に出して、自分の役回りを再確認する。
ストーカー扱いされたときの言い訳だけはしっかり考えておこう。うん。
◆◇◆
雨の音を背景に、まずは頼りになりそうな相手に電話を掛けた。
「委員長。聞きたいことがあるんだけど――」
相沢さんは岸月中出身である。
奇しくもいま可南子ちゃんが通っている中学校だ。
話を聞き終えた。
感謝の言葉を告げて、考えをまとめる。
「小林君の頼みなら、私も力になりますよ。これでも元生徒会長なんです。在学中の知り合いはだいぶ減っちゃいましたけど……コネは残ってますから必要なら言ってくださいね」
「そのときはお願いします。そうならないのが一番なんだけど」
「……頑張ってくださいね」
さすが委員長。ぼくの機微などお見通し、といった風だ。
相沢さんの情報は役に立ってくれた。
入り口から出てきた可南子ちゃんが、軒先で待ち構えていたぼくを目にして、どうしてと言いたげな顔をした。
驚きと疑問の入り交じった表情、それまで見せてくれた姿とはひと味違っていた。
出来るだけ気障に、格好付けて言った。
「ははっ、ぼくは何でも知ってる。格好良いお兄さんは何でも知っているのさ。さあ、どんな難題でも解決してあげよう。だから可南子ちゃん、ぼくに話してご覧なさい」
店の入り口に立ち尽くし、可南子ちゃんはしばらく唖然としていたが、やがて一粒だけ涙をこぼし、それから、くすくすと笑い出した。
なんとかならなきゃ、なんとかする。
その気概がなくて、わざわざ首を突っ込もうなんて思わない。
どうぞ、と差し出した傘の内側に、可南子ちゃんは素直に入ってくれた。
彼女の手にしたビニール袋を指して言った。
「あ、レシートは取っておいて」
「……えっ」
袋もタグもレシートも全部捨てるつもりだったはずだ。
ぼくはそれを止めた。
「それと可南子ちゃん。雨宿りも兼ねて、良ければ一緒にお茶しない?」
「これって、ナンパ……ですか」
「奢るよ?」
「……わたし、初めてなんです」
ここで優しくするよ、とか口に出したらセクハラだ。
真面目に聞き返した。
「そりゃ良かった。知らない男について行っちゃダメだよ。可愛いんだから」
ちょっと恥じらって、可南子ちゃんは頷いた。
「ちなみにぼくも初めて」
「えっ、と」
「ナンパするのも、成功したのも」
「そ、そう、なんだ」
耳まで真っ赤になった。なんだこの可愛い生き物と思いつつ、お手を拝借。
「じゃ、行こうか」
「……うん」
もう勝ったも同然であった。
いや、まだ何にも問題は解決していないけれど。
知人の顔がないことを確かめて、喫茶店に入った。
ぼくはブレンドコーヒーを、可南子ちゃんは紅茶を頼み、落ち着いたところで話を始めた。




