第9話 君が僕を忘れさせた
「湊くんの記憶を消したの」
事故のせいだと思っていた記憶喪失。
でも、それは違った。
凪は自分の意思で――俺から「白石凪」を消していた。
『私が、湊くんの記憶を消したの』
電話越しに聞こえた凪の声。
俺は何も言えなかった。
聞き間違い。
そう思いたかった。
「……消した?」
『うん』
「どういう意味?」
『そのままの意味』
「いや、分かんないって」
声が震える。
「人の記憶なんて、消せるわけないだろ」
『普通はね』
「普通は?」
嫌な言い方だった。
「凪」
『…………』
「ちゃんと説明して」
今度は逃がさない。
そう思った。
でも。
電話の向こうで聞こえたのは。
小さな泣き声だった。
『ごめんね』
「謝ってほしいんじゃない」
『うん』
「知りたいんだ」
俺はベッドから起き上がる。
机の上には。
未来の日付が書かれた写真。
そして。
中学生の俺が残した手紙。
全部。
凪に繋がっている。
「99回」
『…………』
「お前はやり直した」
『うん』
「何回も俺を失った」
『うん』
「それで100回目は、俺の記憶を消した」
『……うん』
「なんで?」
沈黙。
「俺が凪を覚えてたら死ぬから?」
『それだけじゃない』
「じゃあ何」
凪が息を吸う。
『湊くん』
「うん」
『99回目の最後』
声が震えた。
『私たち、約束したの』
「約束?」
『うん』
「何を?」
長い沈黙。
そして。
凪は言った。
『次に会ったときは』
『他人になろうって』
胸が痛んだ。
「……俺が言った?」
『うん』
「なんで」
『思い出したくない?』
「思い出したい」
即答した。
『でも』
「思い出したい」
もう一度。
「自分で決めたい」
凪は何も言わなかった。
「教えて」
『…………』
「99回目に何があった?」
電話の向こう。
微かな呼吸。
そして。
『分かった』
凪が答えた。
『一つだけ』
「うん」
『思い出しても』
一瞬。
言葉が止まる。
『私を嫌いにならないで』
九月十日。
最初の日。
凪が俺に言った言葉。
『100日目まで、絶対に私を嫌いにならないで』
あれは。
ただの可愛い約束じゃなかった。
「……分かった」
俺は答えた。
「嫌いにならない」
『本当に?』
「本当」
『約束?』
「約束」
凪は小さく息を吐いた。
そして。
話し始めた。
◇
99回目。
俺たちは。
高校二年生だった。
今と同じ。
同じ学校。
同じクラス。
そして。
恋人だった。
ただ。
今とは違って。
中学の頃からずっと付き合っていた。
『99回目の湊くんは』
凪が言う。
『全部覚えてた』
「昔のこと?」
『うん』
「事故も?」
『全部』
99回目。
十二月十八日。
その日。
俺と凪は。
何もしないことにしたらしい。
外に出ない。
電車にも乗らない。
車にも乗らない。
学校にも行かない。
二人で俺の家にいた。
「それなら安全じゃん」
俺は言った。
『私もそう思った』
「でも失敗した?」
『うん』
「何が起きた?」
凪が黙る。
『湊くんが倒れた』
「……俺が?」
『突然』
「原因は?」
『分からない』
「病気?」
『違った』
「じゃあ」
『十二月十八日の午後十一時五十九分』
凪の声が震える。
『心臓が止まった』
背中が冷たくなる。
事故でもない。
病気でもない。
ただ。
死んだ。
「それで?」
『救急車呼んだ』
「助からなかった?」
『…………』
凪は答えない。
分かった。
「死んだんだな」
『うん』
一言。
『私の目の前で』
何も言えない。
99回。
どれだけ。
こいつは。
「そのあと時間が戻った?」
『……違う』
「え?」
予想していなかった。
「戻ってない?」
『すぐには』
「じゃあ?」
凪は言った。
『湊くん、生き返ったの』
「…………は?」
今度は。
俺が固まった。
「生き返った?」
『うん』
「いつ」
『十二月十九日の午前零時』
意味が分からない。
「一分後?」
『一分もなかったと思う』
「心臓が戻った?」
『うん』
「じゃあ助かったってこと?」
『そう思った』
でも。
凪の声で分かる。
違った。
「何があった」
『目を開けた湊くんが』
一度。
凪の声が途切れる。
『私を見て言ったの』
「何て?」
『……誰?』
心臓が鳴った。
「俺が?」
『うん』
「凪を忘れた?」
『私だけ』
「…………」
『それ以外は全部覚えてた』
母さん。
美月。
学校。
自分の名前。
全部。
ただ。
白石凪だけ。
消えていた。
「待って」
頭が混乱する。
「じゃあ俺が今、凪を忘れてたのと同じ?」
『似てる』
「似てる?」
『99回目は』
凪が言う。
『一日で全部戻った』
「記憶が?」
『うん』
「じゃあよかったじゃん」
『よくなかった』
「なんで」
沈黙。
『思い出した瞬間』
「うん」
『また死んだから』
「…………」
言葉が止まる。
『湊くんが私を思い出した瞬間』
「死んだ?」
『うん』
『今度は戻ってこなかった』
俺は。
スマホを握ったまま動けなかった。
十二月十八日。
俺が凪を忘れる。
十二月十九日。
思い出す。
死ぬ。
「それが99回目?」
『うん』
「じゃあ」
俺は手紙を見る。
『もし全部思い出したら』
『次は――凪が死ぬ。』
「この手紙は?」
『それは』
凪が言った。
『もっと前』
「何回目?」
『覚えてない』
「覚えてない?」
『もう』
声が掠れる。
『全部の回を区別できないの』
「…………」
『同じ場所』
『同じ会話』
『同じ日』
『湊くんが死んで』
『私が死んで』
『また戻って』
凪が苦しそうに息をする。
『もう、ぐちゃぐちゃなの』
俺は。
何も言えなかった。
100回。
ただの数字じゃない。
こいつは。
100回分。
俺を失っている。
「凪」
『なに』
「99回目の俺と」
聞く。
「何を約束した?」
電話の向こうが。
静かになる。
『最後に』
凪は話す。
『湊くんが言ったの』
――凪。
『なに?』
――次は。
『うん』
――俺のこと、好きになるな。
『嫌だ』
――聞いて。
『嫌』
――俺がお前を好きになったら。
『…………』
――絶対、助けようとするから。
『湊くん』
――何回やっても同じになる。
『でも』
――だから。
99回目の俺は。
凪の手を握った。
――次は、俺からお前を消そう。
『……嫌だよ』
――俺がお前を知らなかったら。
『嫌』
――お前を助けようとしない。
『そんなの』
――俺が死なないかもしれない。
『でも私のこと忘れるんだよ?』
――うん。
『嫌だよ』
――ごめん。
『嫌』
――それでも。
俺は笑ったらしい。
――凪が生きてる方がいい。
俺は。
電話を握る手に力を入れた。
「……俺が言ったの?」
『うん』
凪が泣いている。
『私、何回も嫌って言った』
「…………」
『忘れられるくらいなら』
『湊くんと一緒に死んでもいいって』
「そんなこと言うな」
思わず言った。
『99回目の湊くんも』
「え?」
『同じこと言った』
少しだけ。
凪が笑った。
『やっぱり湊くんだね』
胸が痛い。
「それで」
俺は聞く。
「どうやって消した?」
核心。
凪が黙る。
「俺の記憶」
『…………』
「事故じゃないなら」
俺は続けた。
「どうやって」
凪は。
長い間。
何も言わなかった。
やがて。
『十二月十八日には』
小さな声。
『一つだけ』
「うん」
『必ず起きることがある』
「何?」
『日付が変わる直前』
「うん」
『どっちかが』
言葉が止まった。
『一つだけ、大切なものを失うの』
「……大切なもの?」
『命だったり』
『記憶だったり』
『未来だったり』
「何それ」
『私にも分からない』
「じゃあ」
「100回目は?」
凪は答える。
『私が選んだ』
「何を?」
『湊くんの』
一瞬。
息を吸う。
『私との記憶』
「…………」
『99回目の湊くんと約束したから』
「それで」
『うん』
「全部消した?」
『全部』
小六の出会い。
中学。
初恋。
デート。
喧嘩。
キスをした日も。
全部。
「……キス?」
思わず口に出た。
『え』
「今、キスって」
『言ってない』
「言った」
『言ってない』
「したの?」
『…………』
「凪」
『そこ気になるの!?』
久しぶりに。
いつもの凪だった。
思わず笑った。
「いや、だって」
『真面目な話してたのに!』
「したんだ」
『知らない!』
「したんだな」
『切るよ!』
「ごめんって」
数秒。
二人とも黙る。
でも。
少しだけ。
空気が軽くなった。
そして。
俺は気づいた。
「じゃあさ」
『なに?』
「今回」
『うん』
「俺の記憶を消したんだよな」
『うん』
「だったら」
おかしい。
「なんで俺に告白した?」
電話の向こうが静かになる。
「俺が凪を知らないなら」
『…………』
「そのまま離れてればいい」
『うん』
「俺も死なないかもしれない」
『うん』
「なのに」
九月十日。
凪は。
俺の前に現れた。
『100日間だけ、付き合ってくれない?』
「なんでまた俺の彼女になった?」
沈黙。
答えは。
なかなか返ってこなかった。
『……無理だったから』
「何が」
『離れるの』
「…………」
『最初は』
凪は話す。
『そのつもりだった』
高校で同じクラスになっても。
話さない。
見ない。
近づかない。
俺を守るため。
『でも四月から』
「うん」
『毎日、湊くんがいるの』
「同じクラスだからな」
『私を知らない顔で』
「…………」
『楽しそうに悠真くんと話して』
『美月ちゃんと話して』
『笑ってて』
声が震える。
『私だけ』
『いないみたいだった』
何も言えない。
『それでも我慢した』
「…………」
『五月も』
『六月も』
『七月も』
『夏休みも』
そして。
『九月になって』
凪が泣く。
『無理だった』
胸の奥が締め付けられる。
『100日でいい』
『十二月十八日まででいい』
『最後はちゃんと離れるから』
『全部終わらせるから』
『だから』
凪は。
『もう一回だけ』
「…………」
『湊くんの彼女になりたかった』
俺は。
目を閉じた。
九月十日。
放課後の教室。
あの日。
凪が泣きそうな顔をしていた理由。
全部。
今なら分かる。
「馬鹿だな」
『……うん』
「危ないって分かってるのに」
『うん』
「俺に近づいて」
『うん』
「また好きにならせようとして」
『……うん』
「ほんと馬鹿」
『ごめん』
「でも」
言葉が勝手に出た。
「俺も多分、馬鹿だわ」
『え?』
「だって」
少し恥ずかしい。
「もう好きになってるから」
電話の向こうが。
完全に静かになった。
「凪?」
『…………』
「おい」
『ちょっと待って』
「何」
『今』
鼻をすする音。
『人生で一番嬉しい』
「大げさ」
『100回分だから』
「それはずるい」
凪が笑った。
泣きながら。
笑っていた。
『湊くん』
「ん?」
『ありがとう』
「うん」
『でも』
声が変わった。
『だからこそ』
「何?」
『十二月十八日には』
凪は言った。
『絶対に別れようね』
俺は。
すぐには返せなかった。
「……嫌だって言ったら?」
『ダメ』
「なんで」
『今回だけは』
凪の声。
強かった。
『絶対に湊くんを生かすって決めたから』
「凪は?」
『え?』
「俺が生きたら」
聞く。
「お前はどうなる?」
沈黙。
長い。
嫌な沈黙だった。
「凪?」
『大丈夫だよ』
「何が?」
『私は』
一瞬。
声が震えた。
『ちゃんといなくなるから』
「…………は?」
電話が切れた。
「凪?」
かけ直す。
出ない。
もう一度。
出ない。
メッセージ。
『今のどういう意味?』
既読にならない。
「いなくなるって……」
その瞬間。
机の上の。
未来の写真が目に入った。
2027年12月18日。
俺と凪。
笑っている。
でも。
裏には。
『三回目こそ、あなたを死なせない。』
俺は写真を眺める。
そして。
初めて気づいた。
写真の端。
俺たちの後ろ。
小さく。
時計が写っている。
日付だけじゃない。
時刻。
23時59分。
十二月十八日。
終わる直前。
そして。
写真の中の凪の手首に。
数字が書かれていた。
油性ペンのような黒い文字。
拡大する。
『残り 1』
「……残り?」
その下。
さらに小さな文字。
『100回目で終わり』
心臓が鳴った。
100回目。
今回。
終わり。
誰が?
何が?
そして。
写真をもっと拡大した瞬間。
俺は気づいた。
凪のお腹が膨らんでいると思っていた場所。
違った。
凪は。
何かを抱えていた。
小さな。
一冊のノート。
表紙には。
はっきり書かれている。
『朝倉湊へ』
そして。
その下。
『私を忘れた101回目のあなたへ』
「……101回目?」
今は。
100回目。
なのに。
すでに。
**101回目への手紙が存在している。**
――100日目まで、あと91日。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
99回目の湊自身が選んだ、「凪を忘れる」という方法。
それでも凪は耐えきれず、もう一度だけ湊の彼女になることを選びました。
そして未来の写真に残されていた、
『私を忘れた101回目のあなたへ』。
今回が100回目なら――101回目とは何なのか。
次回、第10話――「101回目の僕へ」。




