第7話 十二月十八日、俺は死んだ
「あなた、一度死んでるのよ」
母さんの口から告げられた、信じられない過去。
五年前の十二月十八日。
凪を助けようとした俺に、いったい何が起きたのか。
「……今、なんて言った?」
自分の声なのに、自分の声じゃないみたいだった。
母さんは答えない。
床には、さっき見つけた手紙。
中学生の俺が未来の俺へ残したもの。
『絶対に凪を探すな』
『凪に会っても、思い出そうとするな』
そして。
『もし全部思い出したら』
『次は――凪が死ぬ。』
意味が分からない。
分かるはずがない。
「母さん」
もう一度呼ぶ。
「俺が……死んだ?」
「…………」
「でも俺、生きてるじゃん」
「分かってる」
「じゃあ何言ってんだよ」
母さんは唇を噛んだ。
「正確には……」
少し間を置く。
「心臓が止まったの」
「…………」
「五年前の十二月十八日。事故で」
事故。
その言葉を聞いた瞬間。
頭の奥が痛んだ。
雪。
道路。
光。
ブレーキ音。
夢で見た光景。
「事故って……」
「車」
母さんが言った。
「あなた、白石さんを庇って車にはねられたの」
「凪を?」
「そう」
「なんで」
「それは……」
「全部話して」
母さんが俺を見る。
「湊」
「もう隠さないでよ」
声が震えた。
「凪も美月も母さんも、みんな知ってる」
俺だけ。
何も知らない。
「自分のことなのに、俺だけ何も知らないんだよ」
母さんは目を伏せた。
「……ごめんね」
その一言で。
怒る気が少しだけ消えた。
母さんの目から涙が落ちたからだ。
「話す」
母さんはそう言って、俺のベッドに腰掛けた。
「私が知ってることだけ」
俺も椅子に座った。
そして。
五年間隠されていた話が始まった。
◇
五年前。
十二月十八日。
夜から雪が降り始めていた。
当時、中学二年生だった俺は、夕方になっても家に帰ってこなかったらしい。
「あなたから電話があったの」
母さんが言う。
「七時くらいだったかな」
「俺から?」
「うん」
「何て?」
「凪ちゃんを送ってから帰るって」
凪ちゃん。
母さんが自然にそう呼んだ。
「母さん、凪と会ったことあったの?」
「何度も」
胸が苦しくなる。
俺の知らない俺の人生。
「家にも来てた?」
「来てたよ」
「何回くらい?」
「数えられない」
凪と同じ答えだった。
「……俺、本当に全部忘れてるんだな」
母さんは何も言わなかった。
「続けて」
「うん」
その夜。
雪が強くなっていた。
凪を家まで送る途中。
交差点。
信号。
そして。
「白石さんが道路に出たの」
「なんで?」
「分からない」
「分からない?」
「事故を直接見てたわけじゃないから」
当然だ。
母さんが知っているのは、その後に聞いた話だけ。
「車が来てた」
母さんの声が震える。
「あなたは白石さんを突き飛ばして……代わりにはねられた」
頭が痛い。
また。
映像。
雪。
道路。
眩しいライト。
凪。
『湊くん!』
「……っ」
「湊?」
「大丈夫」
こめかみを押さえる。
「続けて」
「でも」
「お願い」
母さんは迷った後。
話を続けた。
「救急車で病院に運ばれた」
「うん」
「その途中で……心肺停止になった」
心臓が止まった。
「どれくらい?」
「詳しくは覚えてない。でも、蘇生してもらって……」
「戻った?」
「うん」
母さんが泣きながら笑った。
「戻ってきてくれた」
その顔を見て。
何も言えなくなった。
「意識が戻ったのは?」
「数日後」
「凪は?」
その名前を出した瞬間。
母さんの表情が変わった。
「無事だった」
「怪我は?」
「ほとんどなかった」
「じゃあよかった」
反射的にそう言った。
母さんが俺を見る。
「……同じこと言ったよ」
「え?」
「目を覚ましたとき」
母さんは涙を拭った。
「自分があんな状態なのに、白石さんは大丈夫かって」
「俺が?」
「うん」
胸の奥が妙に温かくなる。
覚えていない。
でも。
なんとなく。
自分ならそう聞く気がした。
「凪は病院に来た?」
「毎日」
「毎日?」
「学校が終わったら毎日来てた」
凪。
どんな気持ちだったんだろう。
自分を庇った彼氏が。
病院のベッドで眠っている。
「俺が起きてからは?」
「もちろん会った」
「覚えてた?」
母さんが黙った。
「……最初はね」
「最初は?」
「白石さんのことも、美月ちゃんのことも、事故のことも。全部覚えてた」
「じゃあ」
俺は身を乗り出した。
「なんで今は忘れてる?」
「少しずつ」
母さんが答える。
「忘れていったの」
「……少しずつ?」
「最初は事故の日のこと」
「うん」
「次に、その前の日」
「…………」
「それから白石さんと過ごした時間だけが、少しずつ抜けていった」
そんなことがあるのか?
「医者は?」
「事故による記憶障害の可能性があるって」
「でも」
おかしい。
「なんで凪の記憶だけ?」
「分からなかった」
「美月のことは覚えてる」
「そう」
「母さんも」
「うん」
「学校のことも覚えてる」
「そう」
凪だけ。
まるで。
誰かが凪に関する記憶だけを消したみたいに。
「凪は?」
聞く。
「俺が忘れていくのを知ってた?」
「……うん」
「どうしてた?」
母さんは答えなかった。
「教えて」
「毎日ね」
声が震える。
「同じ自己紹介をしてた」
「……え?」
「あなたが忘れるたびに」
母さんは泣いていた。
「『白石凪です』って」
胸を。
何かで強く掴まれたような気がした。
「最初は次の日になったら、前日のことを忘れてるくらいだった」
「…………」
「それでも白石さんは毎日来た」
『湊くん、おはよう』
『昨日も来たよ』
『覚えてない?』
『そっか』
そんな凪が。
頭の中に浮かぶ。
「そのうち」
母さんが続ける。
「あなたは白石さんの名前すら思い出せなくなった」
「…………」
「それでも来てた」
「凪が?」
「うん」
「なんで」
答えなんて分かっていた。
それでも聞いてしまった。
「好きだったからでしょ」
母さんは言った。
「あなたのことが」
何も言えない。
「でも」
母さんの声が低くなった。
「ある日、あなたが白石さんに言ったの」
「何を?」
「もう来ないでって」
心臓が止まりそうになった。
「俺が?」
「うん」
「なんで」
「あなた自身が決めたの」
床に落ちている手紙。
『でも、それでいい』
『俺が決めたことだから』
「俺は……何を決めた?」
「忘れること」
「…………」
「白石さんを」
理解できなかった。
「なんで?」
「それは私にも分からない」
「嘘だ」
「本当よ」
「じゃあこの手紙は?」
拾い上げる。
『もし全部思い出したら、次は凪が死ぬ。』
「これどういう意味?」
「……知らない」
「母さん」
「本当に知らない」
母さんは首を横に振った。
「ただ」
「ただ?」
「事故から一年後」
「うん」
「あなたが突然、これを私に渡した」
「この手紙?」
「その箱ごと」
「何て言って?」
母さんは少し迷った。
「もし自分が凪ちゃんのことを完全に忘れたら、隠してほしいって」
「…………」
「二度と見つけない場所に」
「じゃあなんで俺の机にあったんだよ」
母さんの顔が変わった。
「え?」
「この箱。机の引き出しにあった」
「そんな……」
「母さんが置いたんじゃないの?」
「違う」
母さんが立ち上がった。
「その箱は」
明らかに動揺している。
「何?」
「捨てたはずなの」
「……は?」
「三年前に」
部屋が静かになった。
「じゃあ」
箱を見る。
「なんでここにある?」
母さんは答えられない。
俺にも分からない。
そのとき。
スマホが震えた。
机の上。
凪からだった。
『ごめんね』
一件。
『さっきはちゃんと話せなくて』
二件。
そして。
『でも湊くんが怒るのも当然だと思う』
俺は画面を見つめる。
凪。
今なら。
聞ける。
母さんから聞いた。
事故のこと。
俺が凪を庇ったこと。
俺が記憶を失ったこと。
『凪』
送る。
すぐ既読。
『母さんから聞いた』
既読のまま止まる。
『事故のこと』
しばらくして。
『そっか』
それだけ。
俺は打つ。
『会いたい』
『今から?』
『うん』
『どこ?』
少し考える。
『公園』
返事はすぐ来た。
『分かった』
◇
夕方。
あの公園。
今日二度目。
ベンチに座って待つ。
空が赤い。
風が冷たい。
十分ほどして。
凪が走ってきた。
「湊くん!」
息を切らしている。
「走ってきた?」
「ちょっと」
「急がなくてよかったのに」
「会いたいって言われたから」
その言葉。
今は妙に胸に刺さる。
「座って」
凪が隣に座る。
少しだけ距離がある。
「お母さんから、どこまで聞いた?」
「事故」
「うん」
「俺がお前を庇った」
「うん」
「心臓が止まった」
凪の手が震えた。
「……うん」
「それから」
凪を見る。
「俺がお前を忘れた」
「…………」
「毎日、病院に来てたんだって?」
凪が俯いた。
「お母さん、そこまで話したんだ」
「なんで言わなかった?」
「言えるわけないよ」
「なんで」
凪が俺を見る。
「『あなたは私のことを忘れました。でも私は五年間ずっとあなたが好きでした』なんて」
笑う。
泣きながら。
「重すぎるでしょ」
「…………」
「だから」
凪は涙を拭った。
「もう一回、最初からやろうと思った」
「最初から?」
「うん」
「昔のことは関係なく」
凪は笑う。
「今の湊くんに、もう一回好きになってもらおうって」
九月十日。
放課後。
『私と100日間だけ、付き合ってくれない?』
あの日の凪。
どんな気持ちだった?
目の前にいる俺は。
かつて自分を好きだった男。
自分を庇って死にかけた男。
そして。
自分のことだけを忘れた男。
「凪」
「なに?」
「ごめん」
「なんで湊くんが謝るの?」
「分からない」
本当に分からない。
でも。
謝りたかった。
「忘れてて、ごめん」
凪の顔が歪んだ。
「それ」
涙が落ちる。
「言わないでよ」
「でも」
「湊くんは悪くない」
「…………」
「私が」
凪は言いかけて。
止まった。
「何?」
「なんでもない」
「また隠す?」
「……うん」
少し腹が立つ。
でも。
もう怒鳴る気にはなれなかった。
俺は凪の手を見る。
震えている。
そっと。
握った。
「え?」
凪が俺を見る。
「嫌?」
「違う」
「じゃあいいだろ」
「……うん」
凪の指が絡んでくる。
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
「ねえ」
凪が言った。
「なに?」
「昔も」
「うん」
「ここでよく手繋いだよ」
「そう?」
「湊くんからは全然繋いでくれなかったけど」
「俺、昔からそんな感じ?」
「うん」
「じゃあ成長したな」
「ちょっとだけ」
凪が笑った。
俺も笑った。
その瞬間。
胸の奥。
何かが動いた。
景色が重なる。
夕暮れ。
同じベンチ。
隣に凪。
でも。
今より幼い。
『湊くん』
『何?』
『手』
『寒いならポケット入れれば?』
『そうじゃなくて!』
『何だよ』
『もういい!』
「……あ」
声が漏れた。
「どうしたの?」
「今」
「え?」
「思い出した」
凪の顔から笑顔が消える。
「何を?」
「ここ」
頭を押さえる。
「昔、お前が手繋げって怒ってた」
「…………」
「俺がポケット入れろって言って」
「やめて」
「凪?」
手が離れた。
凪が立ち上がる。
「今日は帰る」
「待って」
「帰る」
「なんで?」
「思い出してるから」
「それの何がダメなんだよ」
「ダメなの!」
凪が叫ぶ。
「俺たちの思い出だろ!」
「だからダメなの!」
「意味分かんないよ!」
「全部戻ったら!」
凪の声が。
公園に響いた。
「また同じことになるから!」
沈黙。
「……同じこと?」
凪が口を押さえる。
遅かった。
「同じことって何?」
「…………」
「事故?」
答えない。
「俺がまた事故に遭う?」
凪は首を横に振った。
「じゃあ」
手紙。
あの文章。
『次は凪が死ぬ。』
「お前が?」
凪の目から。
涙が落ちた。
「本当なの?」
答えない。
「俺が全部思い出したら、凪が死ぬの?」
長い沈黙。
そして。
凪は。
小さく頷いた。
「……うん」
「なんで?」
「言えない」
「もうそれじゃ納得できない」
「でも」
「俺は知りたい」
「知ったらダメなの!」
「なんで!」
「だって!」
凪が泣きながら叫んだ。
「もう二回も湊くんを失ってるから!」
「…………」
二回。
俺が知っているのは。
一回。
「待って」
凪の顔が青くなる。
「今、二回って言った?」
「…………」
「事故は一回だよな?」
「湊くん」
「じゃあもう一回は?」
「忘れて」
「何があった?」
「お願い」
「凪」
「帰る」
凪が走り出す。
「待て!」
追いかけようとした。
その瞬間。
頭に激痛が走った。
「っ……!」
膝をつく。
視界が歪む。
そして。
また。
記憶。
病院。
ベッドにいる俺。
中学生。
隣には凪。
泣いている。
でも。
おかしい。
事故の後じゃない。
日付。
壁のカレンダー。
十二月十八日。
その数字。
そして。
凪が俺の手を握っている。
『今度は私が助けるから』
何を?
『だから』
凪が泣いている。
『次は湊くんが私を忘れて』
場面が途切れる。
「……凪」
顔を上げる。
もう。
凪はいなかった。
代わりに。
足元に何かが落ちている。
凪が落としたらしい。
小さな写真。
拾う。
「…………え?」
そこには。
俺と凪が写っていた。
でも。
おかしい。
裏を見る。
日付。
2027年12月18日。
来年。
まだ存在しないはずの未来の日付。
そして写真の中の俺たちは。
今より少し大人びていた。
凪のお腹は。
少しだけ膨らんでいるように見えた。
写真の裏には。
凪の字で。
一言だけ書かれていた。
『三回目こそ、あなたを死なせない。』
「……三回目?」
俺は。
未来の日付が刻まれた写真を握ったまま。
動けなかった。
――100日目まで、あと93日。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
湊の事故と記憶喪失。そして凪が口にした「二回」という言葉。
さらに現れた、まだ存在しないはずの2027年12月18日の写真。
二人にとって「今」は、本当に一度目の時間なのでしょうか。
次回、第8話――「未来から来た写真」。




