第6話 俺は昔、君が好きだった
夢の中で戻った、五年前の記憶。
雪の降る公園。
泣いている凪。
そして、幼い俺が彼女に抱いていた気持ち。
俺は昔――白石凪が好きだった。
午前四時十二分。
俺はベッドの上で、ただ自分の右手を見つめていた。
何も握っていない。
それなのに。
まだ感触が残っている。
小さくて。
冷たくて。
俺の手を必死に握っていた、女の子の手。
「……凪」
名前を口にする。
頭の奥が、ズキッと痛んだ。
でも今度は目を逸らさなかった。
目を閉じる。
雪。
公園。
ベンチ。
小学生の俺。
その隣に座る女の子。
白石凪。
間違いない。
今より髪は短かった。
頬は少し幼くて。
でも、笑ったときの目は今と同じだった。
俺は。
凪を知っていた。
それどころか――
好きだった。
「なんで……忘れてたんだよ」
誰に聞くでもなく呟く。
返事はない。
スマホを手に取った。
凪とのトーク画面を開く。
最後のメッセージ。
『おやすみ』
その上には。
『忘れたままでいてほしい』
そして。
『もう一回だけ、湊くんに好きになってほしかった』
意味が変わった。
昨日までは分からなかった。
「もう一回」の意味。
一度目は。
五年前。
俺は凪を好きだった。
だったら。
あいつは?
凪も俺を――?
聞きたい。
今すぐ電話したい。
でも時刻は午前四時。
さすがに早すぎる。
俺はスマホを握ったまま、朝が来るのを待った。
◇
午前六時三十一分。
一睡もできなかった。
『起きてる?』
凪に送る。
さすがにまだ寝ているだろう。
そう思った。
三秒後。
既読。
「早っ」
そして。
『起きてるよ』
『早いな』
『湊くんも』
『寝てない』
しばらく返信が止まった。
『どうしたの?』
俺は文字を打つ。
『思い出した』
送信。
既読。
返信が来ない。
一分。
二分。
三分。
電話がかかってきた。
凪。
俺はすぐに出た。
「もしもし」
『……何を?』
挨拶すらなかった。
凪の声が震えている。
「夢を見た」
『…………』
「昔の夢」
『どこまで?』
「公園」
息を呑む音。
「雪が降ってた」
『湊くん』
「お前がいた」
『やめて』
「凪」
『それ以上言わないで』
「俺」
言わなければならない。
自分の中でも、確かめたかった。
「昔、お前のこと好きだったんだな」
電話の向こうから。
何も聞こえなくなった。
「凪?」
返事がない。
「おい」
『……うん』
ようやく。
小さな声。
『好きって言ってくれた』
胸が強く鳴った。
「俺が?」
『うん』
「いつ?」
『十二月十八日』
また。
その日。
「初めて会った日に?」
『うん』
「会ったその日に告白したの、俺?」
少しだけ笑ってしまった。
どんな小学生だよ。
『違うよ』
凪も少しだけ笑った。
『告白って感じじゃなかった』
「じゃあ?」
『秘密』
「またかよ」
『……ごめん』
その瞬間。
凪の笑い声が消えた。
『ねえ、湊くん』
「ん?」
『昨日言ったよね』
「何を?」
『思い出そうとしないでって』
「無理だろ」
即答した。
「自分の記憶だぞ」
『でも』
「それに」
俺は続ける。
「お前のことだろ」
沈黙。
「俺とお前に何かあった」
『…………』
「だったら知りたい」
『知らなくていいこともあるよ』
「それを決めるのは俺だ」
少し強く言った。
凪は黙った。
「なあ」
『なに?』
「今日会える?」
『……今日?』
「日曜だし」
『昨日デートしたばっかりだよ』
「ダメ?」
『…………』
「凪?」
『ずるい』
「何が」
『そんな言い方されたら断れない』
「じゃあ」
『十時』
「昨日と同じ駅?」
『うん』
「分かった」
電話を切ろうとする。
その直前。
『湊くん』
「ん?」
『一つだけ約束して』
「何?」
『今日』
少し間があった。
『十二月十八日の最後のことだけは、聞かないで』
最後。
その言葉が引っかかった。
「……分かった」
嘘をついた。
◇
午前十時。
駅。
昨日と同じ場所。
凪はすでに待っていた。
「また早く来た?」
「今日は五分前」
「成長したな」
「誰目線?」
昨日とは違い、パーカーにデニム。
髪も普通に下ろしている。
デートというより、近所に遊びに来たような格好だった。
でも。
俺には昨日より凪が違って見えた。
この顔を。
俺は五年前にも見ていた。
そう思うだけで、不思議な感覚になる。
「……何?」
凪が俺を見る。
「いや」
「また見てた」
「ちょっと」
「昨日はかわいいって言ってくれたのに」
「今日は言わない」
「なんで?」
「調子乗るから」
「ケチ」
そんなやり取り。
五年前も。
していたんだろうか。
「行こ」
凪が歩き出す。
「どこに?」
「公園」
「……あそこ?」
「うん」
「いいの?」
凪が振り返る。
「思い出しちゃったんでしょ?」
少しだけ寂しそうに笑った。
「だったら、もう隠しても仕方ないから」
◇
公園に着いた。
休日なのに、人は少なかった。
小さな子どもと母親。
犬を散歩させている老人。
そして。
あのベンチ。
「座ろっか」
「ああ」
二人で座る。
五年前。
俺たちもこうしていた。
「ここ」
凪がベンチを撫でる。
「変わってないでしょ?」
「昨日も言ってたな」
「うん」
「俺、本当によくここで寝てた?」
「寝てた」
「一人で?」
「最初は」
「最初?」
凪が笑う。
「途中から私も来るようになった」
俺は凪を見る。
「待て」
「何?」
「初めて会ったの十二月十八日だろ?」
「うん」
「途中からって?」
凪が固まった。
「…………」
「お前」
俺は立ち上がった。
「十二月十八日に一回会っただけじゃないの?」
凪は答えない。
「その後も会ってた?」
沈黙。
「何回?」
「…………」
「凪」
「たくさん」
「たくさんって」
「数えられないくらい」
頭が追いつかない。
「いつまで?」
凪は自分の膝を見つめた。
「中学二年生くらいまで」
「は?」
小六から。
中二まで。
約二年間。
「俺とお前、二年間会ってたの?」
「うん」
「なんで何も覚えてないんだよ」
凪は答えない。
「写真は?」
「ある」
「一枚だけじゃない?」
「うん」
凪はスマホを取り出した。
操作する。
そして俺に渡した。
「…………」
アルバム。
画面には。
俺がいた。
凪がいた。
二人でいた。
何十枚も。
春。
桜の下。
夏。
ジュースを飲んでいる。
秋。
二人で自転車。
冬。
マフラーを巻いた凪。
俺が変な顔をしている写真。
凪が寝ている写真。
二人で肩を寄せている写真。
「……なんだよ、これ」
声が震えた。
「全部、俺?」
「うん」
「全部……お前?」
「うん」
画面をスクロールする。
写真。
写真。
写真。
知らない俺。
でも。
全部俺だ。
ある写真で指が止まった。
中学生の俺。
隣に凪。
俺の肩に頭を乗せている。
「これ……」
「中二の夏」
「付き合ってた?」
聞いた。
凪は少し黙って。
「うん」
答えた。
世界から音が消えた気がした。
「……俺たち」
「付き合ってたよ」
「いつから?」
「中一の冬」
「いつまで?」
「中二の――」
凪が止まる。
「十二月十八日?」
俺が聞いた。
凪は答えない。
でも。
分かった。
「そうなんだな」
「…………うん」
十二月十八日。
初めて会った日。
そして。
一度目の恋が終わった日。
「何があった?」
「約束したよ」
凪が俺を見る。
「今日は聞かないって」
「でも」
「お願い」
凪の目に涙が浮かんでいた。
「それだけは」
何も言えなくなる。
凪がスマホを返してもらおうと手を伸ばす。
その瞬間。
画面が切り替わった。
メッセージの通知。
送り主は――
美月。
俺は見るつもりなんてなかった。
でも。
表示された文章が目に入った。
『凪、湊にどこまで話した?』
「…………」
凪が慌ててスマホを取った。
「今の」
「違う」
「美月だよな?」
「…………」
「やっぱり二人、前から知り合いなんだ」
凪が俯く。
「いつから?」
「……中学」
「美月も知ってた?」
答えない。
「俺とお前が付き合ってたこと」
「…………うん」
「じゃあ」
頭に血が上る。
「美月はずっと知ってたの?」
「湊くん」
「俺だけ?」
声が大きくなった。
「俺だけ何も知らなかったの?」
凪。
美月。
母さん。
みんな何かを知っている。
俺だけ知らない。
俺自身のことなのに。
「ふざけんなよ……」
「ごめん」
「なんで謝るんだよ!」
「…………」
「説明してよ」
凪は泣いていた。
それでも。
俺は止められなかった。
「俺は何を忘れた?」
「…………」
「なんで忘れた?」
「湊くん」
「十二月十八日に何があった?」
その瞬間。
凪の顔が変わった。
「ダメ!」
初めて聞いた。
凪の叫び声。
公園にいた人たちがこちらを見る。
凪は俺の腕を掴んだ。
「お願いだから!」
「凪……」
「思い出さないで!」
涙が落ちる。
「なんで」
「湊くんが――」
言いかけて。
止まった。
「俺が?」
「…………」
「俺が何?」
凪は首を横に振る。
「言えない」
また。
その言葉。
「もういい」
俺は凪から離れた。
「湊くん?」
「今日は帰る」
「待って」
「ちょっと一人にして」
歩き出す。
「湊くん!」
振り返らなかった。
振り返れば。
泣いている凪を見れば。
また何も聞けなくなる気がしたから。
◇
家に帰ったのは午後一時過ぎ。
母さんはいなかった。
買い物だろう。
俺は真っ直ぐ自分の部屋へ向かった。
ベッドに座る。
頭の中には、さっきの写真。
俺と凪。
付き合っていた。
二年間も一緒にいた。
それを。
全部忘れている。
「……ありえないだろ」
事故?
病気?
でも。
それなら俺自身が知っているはずだ。
母さんも隠す必要がない。
何かある。
十二月十八日。
俺は机の引き出しを開けた。
昔の物が適当に入っている。
ゲーム。
カード。
写真。
中学校の生徒手帳。
何かないか。
探す。
一番奥。
小さな箱があった。
「……なんだこれ」
見覚えがない。
開ける。
中には。
古いキーホルダー。
二つに割れたハートの片方。
そして。
折り畳まれた紙。
開く。
文字。
俺の字だった。
中学生の頃の。
『未来の俺へ』
心臓が鳴る。
読み進める。
『もしこれを読んでるなら』
『たぶん俺は凪のことを忘れてる』
「…………」
手が震えた。
俺自身が。
忘れることを知っていた?
次。
『でも、それでいい』
『俺が決めたことだから』
息が止まる。
そして。
最後。
『絶対に凪を探すな』
『凪に会っても、思い出そうとするな』
『もし全部思い出したら』
そこで一度。
文章が途切れていた。
震える字。
何度も消した跡。
そして。
最後の一行。
俺はそれを読んだ。
『次は――』
『凪が死ぬ。』
「…………え?」
紙が手から落ちた。
その瞬間。
玄関のドアが開く音。
「湊?」
母さん。
俺は動けない。
階段を上る音。
部屋のドアが開いた。
「湊、今日――」
母さんの動きが止まる。
床に落ちた紙。
開いた箱。
俺の顔。
「……それ」
母さんの顔から血の気が引いた。
「母さん」
俺は聞いた。
「これ、どういう意味?」
母さんは答えなかった。
「凪が死ぬって何?」
「湊」
「知ってるんだろ?」
沈黙。
「教えてよ」
長い沈黙の後。
母さんは。
俺が今まで一度も見たことのない顔で言った。
「……あなた」
声が震えていた。
「一度、死んでるのよ」
「…………は?」
「五年前の十二月十八日に」
俺は。
何も言えなかった。
母さんは続けた。
「白石さんを助けようとして」
そして。
「あなたは一度――」
涙を流した。
「死んでるの」
――100日目まで、あと94日。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
明らかになった、湊と凪の過去。
二人はかつて恋人同士だった。
そして、過去の湊自身が残した警告。
「全部思い出したら、次は凪が死ぬ」
さらに母親の口から告げられた「湊は一度死んでいる」という言葉。
十二月十八日に、本当は何が起きたのか。
次回、第7話――「十二月十八日、俺は死んだ」。




