第5話 俺が忘れていること
「白石さん、夏休みのときから言ってたよ」
「12月18日に湊と別れるって」
俺たちが付き合い始めたのは、9月10日。
なら、どうして凪は――その結末を知っていた?
『12月18日に湊と別れるって言ってたよ』
何度読み返しても、文章は変わらなかった。
電車の中。
窓の外を流れていく景色も、車内アナウンスも、周囲の話し声も。
何も頭に入ってこない。
俺と凪が付き合い始めたのは九月十日。
100日間だけ付き合ってほしい。
そう告白された。
そしてその場で凪はスマホを取り出し、100日目が十二月十八日だと確認した。
俺は確かに見ていた。
なのに。
夏休みの時点で、凪は美月に言っていた。
十二月十八日に俺と別れる、と。
『それ、いつ聞いた?』
送信。
美月からの返信はすぐには来なかった。
数分後。
『8月の終わりくらい』
『どこで?』
『学校』
『なんで凪と美月が話してたんだよ』
既読。
少し間が空いた。
『それは今度話す』
「……お前までそれかよ」
思わず声に出た。
前に座っていた女性がこちらを見る。
俺は小さく頭を下げて、再びスマホを見る。
『白石さん本人に聞いた方がいいと思う』
『何を?』
『全部』
そして最後に。
『湊、あの子のこと本当に何も覚えてないの?』
俺の指が止まった。
『どういう意味?』
送信。
既読。
しかし。
返信は来なかった。
「…………」
凪だけじゃない。
美月まで何か知っている?
いや。
待て。
頭が混乱している。
一度整理しよう。
凪は小六の十二月十八日に俺と会ったと言っている。
俺は覚えていない。
凪はその日の俺の写真を持っていた。
だから、少なくとも会っていたこと自体は本当なのかもしれない。
そして今年。
凪は夏休みの時点で、十二月十八日に俺と別れると美月に話していた。
その後、九月十日に俺へ告白。
期間は100日。
偶然、その100日目が十二月十八日――
「……偶然じゃない」
ようやく気づいた。
逆だ。
100日後が十二月十八日になったんじゃない。
十二月十八日に終わらせるために、九月十日に告白したんだ。
「なんで……」
十二月十八日。
五年前に初めて会った日。
そして今年、別れる日。
凪は最初から全部決めていた。
だったら。
100日目に何がある?
そして。
俺は何を忘れている?
◇
家に帰ってからも、凪には連絡できなかった。
ベッドに寝転がり、スマホを眺める。
凪とのトーク画面。
最後のメッセージは三十分前。
『今日はありがとう!』
続いて。
『初デート楽しかった』
さらに。
『写真、大切にするね』
最後には、
『おやすみ。大好き』
まだ夜七時なんだけど。
早すぎるだろ。
普段なら笑って返信していたと思う。
でも。
今日はできなかった。
『凪』
そこまで打つ。
消す。
もう一度。
『聞きたいことがある』
また消した。
直接聞くべきだ。
月曜日。
学校で。
そう決めてスマホを置く。
机の上には、小学校の卒業アルバム。
さっき押し入れから引っ張り出した。
ページをめくる。
六年生。
懐かしい顔。
担任。
美月。
俺。
当然、凪はいない。
学校が違う。
十二月のページを探す。
マラソン大会。
クリスマス会。
校外学習。
写真が何枚もある。
でも。
十二月十八日のことは何もない。
「……本当に会ったのか?」
あの写真がある。
凪は嘘をついていないはず。
それなのに。
記憶がない。
写真の中の俺は、あの公園のベンチに座っていた。
黒いパーカー。
そうだ。
あの服。
確かに持っていた。
母さんに「また黒?」と言われていたのも覚えている。
でも。
その日、隣に誰かいた?
思い出せない。
目を閉じる。
十二月十八日。
冬。
公園。
ベンチ。
「…………」
何も出てこない。
いや。
一瞬。
白いものが見えた。
雪?
そして。
女の子。
「……っ」
ズキン。
頭の奥が痛んだ。
目を開ける。
消えた。
まただ。
電車の中と同じ。
思い出そうとすると、何かが浮かびそうになる。
そして消える。
そのとき。
部屋のドアが開いた。
「湊ー、ご飯……何してんの?」
母さんだった。
「アルバム見てた」
「珍しい」
「ちょっと聞いていい?」
「何?」
俺は少し迷った。
「小六の十二月十八日って、俺何してた?」
母さんが止まった。
本当に。
一瞬だけ。
「……何で?」
その反応。
見逃さなかった。
「覚えてるの?」
「そんな昔のこと覚えてないわよ」
「今、なんで止まった?」
「止まってない」
「母さん」
「ご飯できてるから、早く降りてきなさい」
母さんが部屋を出ようとする。
「待って」
立ち上がる。
「俺、その日に何かあった?」
母さんの手がドアノブの上で止まった。
「……何もないよ」
「じゃあなんで」
「湊」
声が変わった。
「もう昔のことでしょ」
「昔って、何が?」
「…………」
「俺、何も言ってないよな?」
母さんは黙った。
おかしい。
絶対におかしい。
「母さん」
「ご飯、冷めるから」
そう言って。
今度こそ部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
俺はその場に立ったまま動けなかった。
母さんも知っている。
十二月十八日に何かあったことを。
◇
日曜日。
結局、凪とはほとんど連絡を取らなかった。
向こうから何度かメッセージは来た。
『おはよう』
『今日何してる?』
『昨日撮ったペンギンの写真送る』
『かわいくない?』
俺は最低限の返信だけした。
凪も何か感じたのか。
夕方からメッセージが来なくなった。
夜十一時。
ベッドに入っていると、スマホが震えた。
凪。
『怒ってる?』
画面を見つめる。
『怒ってない』
嘘だ。
怒っているのかどうか。
自分でも分からない。
怖い。
それが一番近い。
凪が何者なのか分からないことが。
自分の記憶が信用できないことが。
『昨日のこと?』
凪から来た。
俺は少し迷って、
『それもある』
と返した。
『そっか』
それだけ。
一分ほどして。
『電話していい?』
俺は迷った。
でも。
『いいよ』
送信。
すぐに電話がかかってきた。
「……もしもし」
『湊くん?』
「うん」
『ごめんね』
いきなりだった。
「何が」
『色々』
「それじゃ分からない」
『うん』
沈黙。
「凪」
『なに?』
「俺たちが付き合い始めたの、九月十日だよな」
電話の向こうが静かになった。
『うん』
「100日後が十二月十八日」
『うん』
「違うよな」
『……え?』
「100日後がたまたま十二月十八日だったんじゃない」
俺は言った。
「十二月十八日に合わせて、九月十日に俺へ告白したんだろ」
沈黙。
それが答えだった。
「美月から聞いた」
『……美月ちゃんから?』
美月ちゃん。
その呼び方にも引っかかった。
二人はそんなに仲が良かったのか?
「夏休みから言ってたらしいな」
『…………』
「十二月十八日に俺と別れるって」
長い沈黙。
『うん』
凪は認めた。
「なんで?」
『言えない』
「また?」
思わず声が強くなる。
『ごめん』
「俺のこと昔から知ってる」
『うん』
「俺は覚えてない」
『うん』
「母さんも何か知ってる」
電話の向こうで息を呑む音がした。
「……母さんに聞いたら、明らかに様子がおかしかった」
『湊くん』
凪の声が変わった。
『もう調べないで』
「は?」
『お願い』
「なんで?」
『思い出そうとしないで』
「どういうことだよ」
『そのままの意味』
「俺の記憶だぞ?」
『分かってる』
「だったら知りたいに決まってるだろ!」
初めて。
凪に怒鳴った。
電話の向こうが静かになる。
「……ごめん」
すぐに後悔した。
『ううん』
凪の声は震えていた。
『当然だよ』
「でも」
『湊くん』
「何?」
『私ね』
少し間があった。
『湊くんに思い出してほしくて、告白したんじゃないよ』
「……え?」
『逆なの』
「逆?」
『忘れたままでいてほしい』
意味が分からなかった。
「じゃあ何で俺に近づいた?」
『…………』
「五年間黙ってたなら、そのまま黙ってればよかっただろ」
『それは』
凪の声が詰まった。
『できなかった』
「なんで」
『もう一回だけ』
「何を?」
そして。
凪は言った。
『もう一回だけ、湊くんに好きになってほしかった』
何も言えなくなった。
電話の向こうから。
小さく鼻をすする音が聞こえた。
「凪……泣いてる?」
『泣いてない』
「いや」
『泣いてない』
明らかに泣いている。
『ごめん。今日は切るね』
「待って」
『おやすみ』
「凪!」
電話が切れた。
ツーツーという音。
俺はスマホを握ったまま。
動けなかった。
――もう一回だけ、湊くんに好きになってほしかった。
「もう一回……?」
一度目は。
いつだ?
俺は凪を知らない。
少なくとも。
俺の記憶では。
◇
その夜。
夢を見た。
雪が降っていた。
あの公園。
小学生の俺がいる。
ベンチに座っている。
隣に。
女の子。
顔が見えない。
二人で何かを飲んでいた。
レモンティー。
女の子が笑う。
『湊くんって、それ好きだよね』
『うん』
『甘いもの嫌いなのに、これは甘くてもいいんだ』
『レモンだから』
『意味分かんない』
笑い声。
場面が変わる。
夕方。
まだ二人でいる。
女の子が泣いている。
『帰りたくない』
『俺も』
小学生の俺が答える。
『じゃあずっとここにいよっか』
『寒いよ』
『じゃあ大人になったら』
声が遠くなる。
聞こえない。
「待って」
夢の中で叫ぶ。
「何て言った?」
場面が変わる。
夜。
雪。
道路。
眩しい光。
誰かの叫び声。
ブレーキの音。
女の子。
赤。
「――っ!」
目が覚めた。
全身に汗をかいていた。
「はぁ……はぁ……」
午前四時十二分。
夢。
ただの夢。
そう思いたかった。
でも。
右手に違和感がある。
握っている。
何かを。
「……え?」
手を開く。
何もない。
なのに。
頭の中には感触が残っていた。
小さな手。
冷たい指。
そして。
俺は思い出していた。
夢の中で。
女の子が最後に呼んだ名前を。
『湊くん』
違う。
それだけじゃない。
俺も。
あの女の子の名前を呼んでいた。
「……凪」
声に出した瞬間。
頭の奥で。
何かが壊れた。
記憶が一つだけ戻った。
雪の中。
泣きながら俺の手を握っている、小学生の凪。
そして。
小学生の俺が彼女に言った言葉。
『大丈夫』
『俺が絶対――』
そこから先は。
まだ思い出せなかった。
ただ、一つだけ分かった。
俺は五年前。
白石凪に会っただけじゃない。
俺は確かに――
あの子のことが好きだった。
――100日目まで、あと95日。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
「初めて会ったはずの彼女」は、本当に初めての恋人だったのか。
少しずつ戻り始めた湊の記憶。
そして凪が願っているのは、「思い出してほしい」ではなく「忘れたままでいてほしい」ことでした。
それでも彼女が100日間だけ湊の前に現れた理由とは――。
次回、第6話――「俺は昔、君が好きだった」。




