十七話 廃村とスライム
「おおー! 道だ! 道があるぞ!」
鬱蒼とした野を超え、切り立った崖を越え、延々と続く木々の間をひたすら突き進むこと二日。
樹海を抜けた先にあったのは、人の往来によって踏み固められた一本の細い土の道だった。
地球の感覚からすれば雑草が生え散らかした田舎道に過ぎない。しかし、果てしない緑の迷宮を彷徨っていた俺にとって、それは久々かつこの世界で初めて目にする文明の息吹。溢れ出す感動と安堵感に胸が熱くなり、自然と声が弾む。
「道があるってことは、この先に人が住む場所があるはずだな! どっちに行けばいいんだ!?」
駆け寄って道の左右を見渡してみるが、視界の先には地平線と草原が広がるばかりで、建物や人影は見当たらない。
ファンタジー作品のお約束なら、この辺で行商人の馬車が通り掛かったり盗賊に襲われている貴族の令嬢なんかに遭遇する場面なのだが、現実はそう甘くもない。通り抜ける爽やかな風の音しか聞こえてこない。
どちらへ進むべきか、目的地間近の高揚感とともに振り返ると、小春が道端にしゃがみ込んで土に残された痕跡を真剣な目つきで観察していた。
「……たぶん、あっち」
「よっしゃ! 東だな!」
小春が指差したのは左――方位磁石の針が東を示す方角だ。
「やっぱ観察眼が鋭くて物知りな相棒は頼りになるな~。足跡の深さとか土の崩れ具合で人通りを分析してたんだろ? あ、嗅覚鋭い犬らしく作物の匂いでも嗅ぎつけたか?」
「昔、近くを通ったことがある」
「あ……そ、そっちね……」
さっきまで地面の痕跡に向けていたあの真剣な眼差しは一体何だったのか。そして知っていたなら何故最初から言ってくれなかったのか。
小春のマイペースぶりにもやもやした気持ちを禁じ得なかったが、歩を進めるにつれて増えていく車輪の轍や馬と思われる蹄の跡に、そんな些細な疑問は吹き飛んでしまった。
「どんな馬車が走ってるのか楽しみだな~! やっぱ中世ヨーロッパ風の木製馬車? それとも馬の代わりに巨大なトカゲとか魔獣が引いてる感じの、コテコテのファンタジー仕様かな?」
すっかりテンションの上がった俺は、街道の土に残された無数の轍を覗き込みながら、隣を歩く小春に軽口を叩いた。
舗装道路には絶対に刻まれない、重量物が何度も通ったであろう深い溝や、見たこともない形状の複雑な車輪の跡が、未知の世界からの招待状のように思えて仕方がないのだ。
「大きいのもいれば、小さいのもいる」
「も、もうちょっと情報いただけませんかね……馬車の外観とか、引いてる生き物の種類とか、具体的な大きさや速度とか……」
「大きな荷馬車は四輪。小さいのは二輪で、一人乗りの軽快なやつ。引いてるのはだいたい馬か、トカゲみたいな見た目の地竜。空中を浮いてる乗り物は見たことない」
「おおっ、急に解像度上がった! やればできるじゃん! 竜が引く馬車とかロマンの塊じゃん!」
小春の淡々とした、しかし意外と詳細な補足に俺の胸の躍りは最高潮に達した。
「じゃあさじゃあさ! あれはあるのか!? 竜騎士! カッコいい鎧を着て、巨大なドラゴンに跨がって大空を縦横無尽に飛び回るやつ!」
「それはある。私が言ったのは飛行船とか巨大な乗り物。ただ地竜と違って飼い慣らすのが難しいみたいで、大きな争いの時ぐらいしか見ない」
「マジか! 竜騎士実在するのかよ! なら、ドラゴンの胴体にゴツい鞍と頑丈な箱を巻きつけて乗るような運搬とかは――」
そんな男のロマン全開なファンタジー談義に花を咲かせながら、街道をさらに歩くこと小一時間。
草原の先に、木造の家屋やレンガ造りの建物が数十軒ほど固まって建ち並ぶ、のどかな農村らしき集落が見えてきた。
「やったぞ小春! ついに村だ! 正真正銘の人里に到着だーーっ!」
「……待って、和樹。様子がおかしい」
駆け出そうとした俺の袖を、小春がキュッと引っ張って制した。
「ど、どうしたんだよ急に……?」
振り返った俺の目に飛び込んできたのは、いつもの無表情とは一線を画す、小春の張り詰めた表情だった。
ピクピクと警戒に揺れる彼女の犬耳と、村全体を射抜くようにじっと凝視する瞳、そして一向に離れない力強い手。
その只事ではない空気に、俺の胸の中に満ち満ちていた高揚感は、一瞬にして氷のように凍りついた。
「人の気配がない。生活の匂いもしない」
静かに、しかし低く放たれた小春の言葉に、背筋を冷たい汗が滑り落ちる。
言われてみれば、昼下がりであるはずの村は不自然なほど静まり返っていた。畑を耕す農夫の姿も、家畜の鳴き声も、子供の走る足音も、何一つない。村を囲む木製の柵も一部壊れているように見える。
人口が少なく貧乏な村ならそんなものだろうと、無意識のうちに都合よく自分へ言い聞かせていたが――どうやら現実は、そんな甘いものではなさそうだ。
「盗賊か魔獣に襲撃された後……とかか?」
ゴクリと生唾を飲み込みながら、俺は背中のリュックのベルトを固く握り締めた。
まさか人類そのものが既に滅び去った後なんて絶望的なオチじゃないだろうなと、嫌な汗を流しながら不安に苛まれていると――。
「たぶん魔獣。地面に少しだけ足跡と、血の匂いが残ってる。襲われたのは一、二週間くらい前」
「一週間……」
その言葉の生々しさに、俺は足元から冷気がこみ上げてくるのを感じた。
一週間前といえば、俺が呑気に地球で日常生活を送っていた頃だ。その裏で、この場所では悲惨な惨劇が繰り広げられていたかもしれないのだ。遠い世界の出来事なら他人事として受け流せても、目の前にある生々しい痕跡を前にしては、到底無関心ではいられない。
「中に入ってみる?」
小春が俺の表情を覗き込むように尋ねてくる。
その瞳には恐怖の色など微塵もなく、ただ俺の判断を待つ従順な相棒の光だけが宿っていた。
「……ああ。立ち去るにしても、ここがどういう場所で、何に襲われたのかくらいは知っておきたい。それに、人里の情報を手に入れる貴重なチャンスだ。ただ、警戒だけは最優先で頼む」
「ん。任せて」
俺達は固く決意を固め、息を殺しながら廃墟と化した村の中へと足を踏み入れた。
踏み荒らされた畑、砕かれた扉、投げ捨てられた農具。そして村の中央へと進むにつれ、荒れた土の上や建物の壁には、ど黒く乾いた血溜まりがそこかしこに残されていた。
「なぁ、あれって……」
「大丈夫。あの血の量と飛び散り方なら致命傷じゃない。村人は命からがら逃げる途中で、獣型の何かと戦って怪我を負っただけ。この辺に人を骨ごと丸呑みするような魔獣もいない」
「そ、そうか……! よかった……」
弱肉強食。
この世界……いや、地球も含めて全宇宙を支配する絶対的真理の四文字が、ズシリと重く脳裏を駆け巡る。
俺達は普段その現実から目を背けがちだが、肉や魚を食べることだって、すべてはその自然の摂理の結果に過ぎないのだ。あの虎親子も力があれば人間を襲っていたかもしれない。言わないだけでシルヴィアも食べたことがあるかもしれない。
それを咎めてもいいのは当事者か関係者、あるいはその摂理を一度たりとも利用したことがない者だけだろう。
――なんて、ガラにもなく深めの人生訓を思考していた俺だったが。
(ヤ、ヤバい……緊張が解けた途端に猛烈な尿意が……)
ここまでの移動で溜まりに溜まっていた生理現象が、急激に存在感を主張を始めてしまった。もはや限界突破寸前である。
「こ、小春……! ちょっと村の中を探索しつつ、使えそうなトイレ探してくるわ!」
「いってらっしゃい。生き物の気配はしないけど、建物の崩落には気を付けて」
俺は股間をやや絞めるような妙な体勢で、村の共用施設らしき半倒壊した木造小屋へと駆け込んだ。
幸いにも、奥に便所と思われる古びた個室を発見。便座ではなく床に掘られた深めの肥溜め穴で、扉は半分吹き飛んでいたが、背に腹は代えられない。
「ふぅぅぅ、助かったぁ……ん?」
至福の吐息を漏らし、溜め込んだ水分を一気に解放していると、暗い穴の底から『ゴポポポ……』という気味の悪い粘着質な音が響いてきた。
実はボットン便所ではなく水洗で、配管でも詰まっていたのだろうかと首を傾げ、下を凝視した瞬間。
蛍光塗料のような鮮やかな青色の物体が、勢いよく飛び出してきた。
「うおあぁぁぁぁっ!???」
半狂乱で尻もちをつくが、半透明な青いゼリー状の物体――スライムは、ぬめっとした感触で俺の脚を這い上がってくる。
「くっ、この……!」
とっさに手で引きはがそうとするも、半液体に近いスライムは指の間をヌルりと抜け出し、掴むことすらできない。ズボンと下着を膝まで降ろした無防備かつ無様な体勢のまま、俺は必死に腰を引いて脚をバタつかせた。
「あ、言い忘れてた。この世界では排泄物はスライムに処理させるのが一般的。たぶん便器の中にもお腹を空かせたスライムがいる」
下半身大ピンチの中、小屋の外から小春の平然とした声が届く。
「言うの遅いよ! てかこいつ滅茶苦茶まとわりついてくるんだけど!? この世界のトイレってこういうもん!? ノズル式洗浄機と割り切るべき!?」
「違う。普通のスライムはもっと大人しい。刺激しても襲ってきたりしない」
「じゃあなんでこいつは俺の股間に張り付いて離れないんだよ!?」
「たぶん和樹の尿が目当て。地球産のものは例外なくパワーアップしてる。和樹の身体から出たものもそうなら、スライムにとっては一生に一度出会えるかどうかの最高の食事なのかもしれない」
「だからってこれは絵面的にも尊厳的にもアウトなのですが!? 掴めないし離れないし、どうにかしてくれぇぇぇ!」
「なら、これ食べさせてみて」
小春が壊れた扉の隙間から、あんパンを差し出してきた。
なるほど。同じ地球産のものならハイカロリーで甘いパンの方が好きに違いない。
「食えぇぇぇっ! こっちの方が美味いぞコラァッ!!」
俺は小春から受け取ったあんパンを、床へ勢いよく放り投げた。
――が、スライムは俺の太ももにピッタリと吸い付いたまま、地球産の水分の余韻を貪るようにヌルヌルと蠢き続ける。足元に転がる甘味には見向きもしない。
「なんで離れないんだよぉ!」
「味を知らないから。匂いだけじゃ何なのかわかってない」
「だから言うのが遅いって!」
度重なる小春の遅くて冷静なアドバイスにツッコミを入れつつ、俺は床のあんパンを引っ掴むと半分に引きちぎった。
そして、溢れ出す甘い小倉あんの匂いとともに、股間に張り付くスライムに力いっぱい叩きつけた。
(――ッッ!?)
あんパンの断面が触れた瞬間、スライムに稲妻のような衝撃と歓喜の激震が走った。全身をプルプルと震わせ、半透明の体が感動で一瞬キュッと縮み上がる。
「ほら! 床にもっとデカいのが落ちてるぞ! 行けぇッ!」
そう叫ぶ間もなく、味を覚えたスライムは俺の脚から猛スピードで離脱。床のあんパンへと飛びつき、じっくり味わうように吸収し始めた。
「ふ、ふぅぅぅぅ……っ!! 助かったぁぁぁぁ……っ!!」
間一髪で男の尊厳を守り抜いた俺は、半泣きになりながら大急ぎでズボンを引き上げ、ベルトをガチガチに締め直した。
「やっぱり地球の食べ物に目がないみたい」
「もうちょっと申し訳なさそうにしても良くない!? 心配してくれても良くない!? 危うく俺の大事なとこが溶かされるところだったんだぞ!?」
「スライムの消化能力はそこまで高くない。何カ月張り付かれたとしても人間は溶けない。それを利用して男達の間ではバター犬ならぬ垢すりスライムで性――」
「あー! あー! 良かったぁぁ! 助かったぁぁッ!!」
言わせねえよ。
地球産のパンを味わい尽くし、心なしか満足げにぷるぷる揺れているスライムを見下ろしながら、俺は深いため息とともにその場に崩れ落ちるのだった。




